
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主の名を誇る」詩篇20:7 にあります。聖書から軍事力を正当化するようなことは、神を正しく礼拝している態度とは言えません。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」ヨハネによる福音書4章24節
サマリアの女にイエス様が語った言葉です。「神は霊」であるから、人間も霊の領域「魂」で神様を礼拝しなくてなりません。「霊と真理」で礼拝するとは、魂が聖霊で満たされるように、自分自身を献げることなのです。
アメリカ真コーメック神学校、バークハート教授は、礼拝に「認識」「人生のリハーサル」「宣教」の三つの次元があると言います。
1「認識」 神様が愛と愛と正義恵みに満ちた方であると認識し、受け入れる。神様に自分自身を開放し、新しく自分を変えてくださる現実を受け入れる。
2「リハーサル」 リハーサルは登場人物の性格づけをし、セリフを覚え、役を演じられるように繰り返す。礼拝は神の子となるためのリハーサルである。
3「宣教」 礼拝がキリスト者の生活のモデルとなるとき、礼拝が「認識」「リハーサル」の場となるとき、キリスト者が隣人と社会に対し、何をなすべきか明らかとなる。それが「宣教」となるのである。 J.E. ハークバート『礼拝とは何か』
結婚問題など、リハーサルなしで臨むとき、多くの悲劇が生まれています。しかし、聖書を通して、わたしたち人類が犯してきた様々な過ちを知ることができます。
礼拝において、わたしたちの魂が、神様からの夢、思想、理想、願望で満たされることが、人生のリハーサルとなります。礼拝が、キリスト者の人生の練習だとすれば、キリスト者の実生活は、「礼拝的」なものとなるべきなのです。