
日本語には、元もと文字がなかった。中国から漢字が輸入され、様々に転用されて今日の文字文化は形成された。口語( ことば) では充分に表現できなかった言語も漢字を当てる事で、意味を伝える事が可能とされた。取る、撮る、盗る、採る、執る、捕る、摂る。等々文字から様々な状況を把握することが出来る。その様な事情からか、日本人は造語の能力に大変長けていると思う。[Loveing] という見出しについて、以前話した事がある。飢餓に苦しむ人々を助けようと云う趣旨のパンフレットに使われていた。
「目は口ほどにものを云う。」と云われる。聖書にも「目はこころの窓。」と書かれている。事務的な表現、規則通りの行動、毅然とした態度は、大切な事であるが、人間関係はそれだけでは成立しないのである。親切にされた, 思いやりを感じたと云う「こころ」の動きが感じられるとき、人間関係における潤滑油は機能するのである。
イエスの兄弟であったヤコブとパウロとの確執は、古来様々にささやき続けられてきた。ヤコブの手紙は、パウロの主張に対するヤコブの反論であるとか、行動の伴わない信仰は存在しないとの論説はパウロを意識している等々であるが、パウロへの攻撃ではなく、パウロの教えを曲解する人々への警戒である事は明かである。
「お里が知れる。」と云う言い草がある。ずいぶん失敬な表現であると思うが、在る意味で真実であるだけに、留意すべきであろう。子どもの頃からの環境を云々するのは酷ではあるが、訓練と配慮、また自己の啓蒙によって補う事が可能であるとすれば、人の一挙手、一投足がその品位を上げ下げする。何気なく行った行為が、会社の業績や、個人の将来に多大な影響をもたらす事に心せねばならない。大先輩の牧師は「我々キリスト者は、天国の鍵をあずかる者、現代に於けるキリストの代理、革靴を履いた聖書だ。」「人々が最初に読む聖書は、革靴を履いている。」
聖書を学び、心から神を信じ、教えを実践する私たちは、人々の読む最初の聖書である。引き続き聖書に興味をもって頂くために、より分かり易い聖書に徹するむね心せねばならない。 社員が電話を手に取った時、その会社の顔になる。お客に茶菓を差し出す時、会社の品位を代表していると云われる。明るいトーンの会話は、会社に利益をもたらすのである。日頃の業務も、こころと思いとの積み重ねに重要な意味がある。ひと言の声かけ、自然に差し伸べられる手、行動が潤いを生み出すのである。(愛一師)
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。ヤコブの手紙2章16・17節
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