
ある老人ホームで、軽度の認知症のお年寄りがひなたぼっこをしながら会話していました。「あの世はどんなところかね」と話していると、もう一人が、「どうもいいとこらしいよ。誰も帰ってこないから」と言いました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネによる福音書11章25節
人間は誰でも死にます。しかし、聖書は死が人間にとって終着点ではなく、また新たな始まりであると語ります。神の恵みにより、朽ちるものから、朽ちない永遠の者へと変えられるときなのです。
不慮の事故で天に召された少女は、死ぬ前にある画家のイエスの肖像を見て、「イエス様は、全然あんなふうには見えないわよ」と、はっきり言いました。「 天使よ! 本当にきれい。ママ、見える? 天使の歌が聞こえる? こんな美しい歌って聞いたことがないわ。」7 歳で白血病のため天に召されたアンナちゃんは、死の直前、最後の力を振り絞り起き上がって叫びました。そして、彼女は息絶えました。両親は、それを見て、世界一の贈り物を受けたように感じたそうです。デビッド・ビーベル牧師は、長男を神経疾患で亡くし、次男も同じ病気だと知り、「これが進むべき道ならば、神など地獄に堕ちるがいい」と言いました。しかし、冒涜的なその言葉の中にある真実に気がつきました。それは、神の子は十字架に架かり地獄へ行かれたことです。キリストはすべての人間の罪を背負い、父から捨てられる体験をされたのです。牧師は神の声を聞きました。「息子よ。私はお前のことがわかる。お前の痛みがわかり、悲しみを支えよう。お前の言葉は悲しみを抑え切れずに出たものだ。それでも、私はお前を愛している」。親として、子どもに先立たれる程の悲しみはありません。その気持ちが、かえって神への信仰を深め、神の愛を知ることとなります。肉親を失う悲しみも、神を知る機会とされ、祝福と平安を得る生き方が出来るようにしてくださるのです。
キリストを受け入れた者は、死後の永遠の命だけでなく、罪により死んだような状態から、新しい命が与えられ、他の人の傷に敏感で、目的を持ち、今までに亡い力で生きられるようになるのです。