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2009年10月25日日曜日

『 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。』イザヤ書41章10節



 小4 の女の子がいました。彼女は吹奏楽の発表のとき、いつも失敗してしまう難しい曲の前にお祈りしました。演奏中もお祈りしながら演奏したところ、失敗しないで出来たそうです。神様の力、励ましが祈りを通して現れたのです。

『 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。』イザヤ書41章10節

 エリヤは、彼を殺そうとする女王イゼベルを恐れ、そして逃げ出しました。迷い、失敗する弱い人間であるエリヤを、神様は勇気づけ、
励まし、再び立ち上がらせたのです。

 小学生の頃、セーフティネット( 彼さえいれば最下位にならない) とあだ名されていたベンジャミン・カーソン医師は、世界で初めて、頭でつながった結合双生児の分離手術を成功させました。彼は母親の信仰と祈りのおかげで、勉強も出来るようになってきた14 歳、些細なことから、彼は怒り、友人の腹をナイフで刺したのです。たまたま、ナイフがベルトのバックルに当たり、友人は助かり、彼は犯罪者にならなくてすみました。その時、彼は走って家に帰り、「自分は狂っているに違いない」と2時間、祈り続けたのです。祈り、そして聖書を読み始めると「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」箴言16 章32 節が目に入りました。まるで、自分一人のために書かれたように思えて、希望がわいてきました。彼の半生を描いた映画があります。その中で「イエス様こそ、私の人生、私の喜び、私のすべてです。主イエスこそ、日々の暮らしに力を与えてくださるお方、イエス様がおられなければ、私は倒れて倒れてしまいます。悲しい時には、私はイエス様の元へ行きます」と信仰告白をしています。

 弱く、無力な私たち。クリスチャンであっても神様なしでは、生きていくことは出来ません。神様はどんな時にも、私たちを力づけ、励まし、再び立ち上がれるように導いてくださるのです。

2009年10月18日日曜日

『 そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。』列王記上18章24節



 原子より小さい素粒子も神様も目で見ることは出来ません。素粒子物理学者ランドール・フィスク博士は、科学的な見地から神は存在すると確信しました。いろいろな宗教を調べてみましたが満足できませんでした。しかし、聖書を読んでいると、これは本物だと心の中に告げるのもがありました。そして、あるクリスチャンの大きな集会に行った時、魂の中で神さまの御霊が喜んでいるのを感じたのです。

『 そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。』列王記上18章24節

 異教の神バアルと、本当の神はどちらであるか、エリヤはカルメル山で戦いました。それは水を撒いた祭壇に神に祈って火をつけるというものでした。バアルは火をもって答える神と考えていた多くの人々の前で、エリヤは主に祈り、完全な勝利を得ました。神はただお一人であり、拝むべきは本当の神様だけなのです。

 脳に腫瘍があり、手術後も、盲目、自閉症と障害が残ってしまったレックス君は、どんな曲でも一度聴けば、すぐにピアノで弾け、即興演奏が得意で、創造性に優れた音楽の天才です。ところが、自分のアパートの間取りも覚えられず、一人でボタンもはめられません。母親キャサリンさんは、レックス君が生まれたとき、現実を受け止められず、人生は終わったと感じていました。そこに神様が入ってこられ、彼女が教会に通うようになりました。レックス君の2 歳の誕生日にキーボードが届けられました。レックス君は握っていたこぶしを開き、キーボードを弾き始めました。5 歳半でピアノのレッスンを始めると、先生は、レックス君の演奏には、「神聖なる神の御手が働いている」と言いました。「神さまとイエス様を信じていますか」と牧師が尋ねると、喜びを全身で表すようにこう、「もちろんです。僕はイエス様を愛しています。イエス様も僕を愛していてくださっています」と答えたのです。母は、息子の障害を知ったとき、死を意味した、と語ります。しかし、イエス様の贖いを知ってから、祝福が始まりました。神さまはキーボードを贈ってくださり、音楽の賜物を引き出されました。今や母子が共に喜び、人々に希望を与えています。

 この世にイエス様の名の他、救いはありません。本当の神様は、お一人だけです。私たちを導いてくださる神様だけに従い、正しく歩みましょう。

2009年10月11日日曜日

『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。』列王記上17章1節



 神社のご神体が何であるのか確かめようと、私の父は子供の頃、祠を開けてみると、そこには石が入っていました。近くにある別の石と取り替えて、罰が当たるかどうか試してみたそうです。しかし、何も起こりませんでした。本当の神様だけが生きておられ、私たちを導いてくださいます。

『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。』列王記上17章1節

 預言者エリヤは分裂王国時代、北王国、イスラエルで活躍しました。偶像礼拝をするイスラエルの王アハブに対し、「主は生きておられる」と非難し、命を狙われることになります。しかし、神様は人間には不可能と思われる様な方法で、エリヤを助けました。現代でも神様に従う時、私たちは生きている神様の業を見ることが出来るのです。

 クリスマスまで、あと二日しかありませんでした。以前は伝統ある教会でしたが時代の流れで寂れてしまい、また雨漏りで壁が崩れ、それを隠そうと新任の牧師夫妻は、フリーマーケットでテーブルクロスを買いました。教会に帰ったところ、年老いた女性がバス停で寒そうにしていました。「次のバスまで40分はありますよ」と声をかけ、その人を教会に招きました。彼女は頭を垂れ祈り、顔を上げると先
ほど手に入れたばかりのテーブルクロスが目に入りました。その女性は、「このテーブルクロスの後ろにEBC というイニシャルがありませんか」と尋ねたのです。牧師が確かめると、テーブルクロスにはEBC とサインがありました。 実は、それは、彼女がアメリカに来る前、オーストリアでの新婚時代に作ったものでした。しかしナチスによる迫害で、家を追われ、夫と生き別れ、アメリカへ逃げてきたのです。
時と海を越え、自分が幸福だった頃つくったテーブルクロスと再会しました。牧師は、その女性を家まで送りました。さて、クリスマスに多くの人が教会に集まってきました。礼拝が終わったあと、老いた男性が一人教会に残り、テーブルクロスを見つめているのです。その男性は言いました。「これは手作りですね。妻が作ったものにそっくりです。」と。牧師は名前を確認すると、あの女性の生き別れの夫だったのです。牧師は男性を彼女のもとへ連れて行きました。実に、35 年の歳月を経て、ナチスの迫害によりオーストリアで生き別れになった夫婦が再会したのでした。

 「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」とパウロは言っています。生きておられる神様は、私たちをあらゆる方法で導いてくださいます。神様だけに望み、正しく歩みましょう。

2009年10月4日日曜日

『主よ、お話しください。僕は聞いております』サムエル記上3章9節



 アメリカの有名な牧師が、ある教会員の家を訪ねたとき、子供が「お母さんは9 ~10時まで祈りの時間なのであえません」と言いました。40分程たって、母親が母親が出てくると、彼女の顔は平安に満ち、輝いていたそうです。その家の子供達は宣教師、牧師となりました。神の言葉を聞き、祈る母親は子供を正しく導きます。

『主よ、お話しください。僕は聞いております』
サムエル記上3章9節

 サムエルは神から話しかけられていることに気が付いたのは、祭司エリの助言があったからでした。祈りのとき、感謝や、望み、願いだけではなく、神様にまっすぐに向き合い、心から「主よ、聞いております。お語りください」と、神様からの言葉に耳を傾けましょう。

 「教師をしているのは、収入のためではなく成果のためである」と、全盲の高校教師、リチャード・ラッファローさんは語りました。彼は20 歳の頃、いずれ失明すると宣告を受けます。以後13 年、だんだん視力が弱まり、その視力とともに彼の人生も崩れていきました。好きだった陸上競技もできません。自殺を考え、友人や家族をののしり、酒に溺れてゆきました。32 歳で失明した時、高校の教師だった彼は辞職願いを出しますが、校長は、教師を続けられるようにアシスタントを雇ってくれました。信頼され必要とされていることを知り、彼は出来るかぎりよい教師になろうと決心し、翌1984 年、キリストを救い主として受け入れたのです。彼は生徒の声を二週間で覚えてしまい、声で誰なのか分かるようになりました。このことで、生徒らはどれ程、大切にされているかわかりました。神様も私たちの声を、ひとりひとり覚えていてくださり、祈り、そのお言葉に耳を傾けるとき、応えてくださるのです。1995年、彼は全米最優秀教師に選ばれます。また、障害を乗り来られることを示すため、陸上部の監督も続け、1988 年パラリンピックの円盤投げで世界記録と金メダルを獲得しました。

 自らの力にたより、キリストがいなくても人生が見える者は、闇の中を歩むことになります。キリストなしでは人生は闇だと知る者は、神様の語る言葉に耳を傾け、魂の目と耳が開かれ、キリストの救いを得るのです。