ページ

2011年7月17日日曜日

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・ イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。  ローマの信徒への手紙3章23・24節



 ヴォーリズ記念病院のホスピス「希望館」の細井 順医師は、浪人時代に放蕩息子と自分を重ね合わせ、イエス様を救い主として受け入れる謙遜な信仰を持ったクリスチャンです。そしてまた、自ら癌患者となった体験から、患者の気持ちが分かるようになり、人間はがんあってもなくても関係なく、その日、一 日平安に過ごせればよいのだと気づきました。「自分が何かしてやろう」というこの世的な発想を悔い改め、他人の深い欲求を満たせる、医者となったのです。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・ イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。  ローマの信徒への手紙3章23・24節

 最初の人、アダムによって人類に罪、死が入り込みました。しかし、神様はご計画通り、イエス・キリストの死による救いの道開いてくださいました。

 ジェイミー・ジョージ氏は、社会主義国キューバでの牧師家庭に生まれ育った、世界的なバイオリニストです。 あるコンクールで、ジェイミーさんは一位と認められましたが、一位をもらうには、神さまへの信仰を捨てることが条件でし た。聖書には、人に従うよりも神さまに従う方が良いと書いてあるので、ジェイミーさんは断わります。すると、審査員の一人が共産主義政府を代表して、神を 信じないという書類に署名すれば、モスクワに行く奨学金をあげよう、君と家族全員が、より良い暮らしができるのだと説得しにきました。しかし、ジェイミーさんは、「僕の答えはもう分かっているでしょう。時間の無駄です」と答えました。その時、ジェイミーさんは僅か9 歳でした。少年ジェイミーは、自分でキリ ストへの信仰に立ったのです。 コンクールで優勝することよりも、イエス様に従ったジェイミーさんのことを、共産政府は、決して良いバイオリニストにはなれないと、あざ笑いま した。しかし、神さまのお導きで、自由の国、アメリカに渡り、
神のご栄光を表すバイオリニストとして世界的に活躍するようになったのです。

 神様の愛の対象として造られ、自ら神様に仕えることを期待されていた人類は罪を犯し、神から離れ、エデンの園から追放されました。しかし、神様はイエス・キリストによる救いを用意してくださっていました。

2011年7月10日日曜日

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。 男と女に創造された。  創世記1 章27 節



 「イメージが決まらず、構図が決まらず描けない時もありますが、主がいつも私と共に居てくださり、イエス様が私の為に描けるようにとりなしていてくださっていると思っています。私は、この世の画廊ではなく、キリストの専属作家として歩んで行ければと願っています。」画家、森岡 憲治さんは、信仰を持つ前、描けない時、酒に逃げ、タバコも一日に60 本程吸い、不規則な生活で、体を壊しました。無力さを教えられ、神との出会いがあり、森岡さんは受洗しました。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。  創世記1 章27 節

 神に似せて造られたというのは、神の性質、聖さ、愛、義、三位一体性など宿すことです。しかし、人間はチリから造られ、神によって霊的な命を吹き込まれた存在です。神を離れては、チリに戻るだけなのです。

 クリスチャンのキム・ソン・アンナさんは、アメリカで日本人を対象とした日本語での悩み事の無料電話受付サービス、「日系ヘルプライン」( 命の電話) のコーディネーターとして活躍しておられます。相談の内容は、移民局、ビザ、永住権、法律、犯罪関連、交通事故、離婚、子どもの問題、ドラッグ、病院、学校、教育など様々です。特に多いのが、国際結婚した日本人女性からの相談です。キムさ
んは愛情をもって説いていきます。それぞれ、互いの文化をよく研究することが幸せにつながるし、国際結婚のみならず、日本に育っていても、互いの文化背景を考えながら結婚生活を続けて行くと、破綻せずに済む、とキムさんは主張しま
す。 キムさんは当初、「どうしてあなたは韓国人なのに日本人を助けることに一生懸命になっているの? 韓国人は日本人を憎んでいるんでしょう?」とよく聞かれたといいます。キムさんは、一言「わたしはクリスチャンだ」と言うと、それで問答は終わるといいます。

 人間は、神に似せて造られたのですから、聖霊の働きにより、神さまのお導きで何をすべきかが示されます。そして、強くて優しいイエス様の人格、生き方に近づかせていただくこと、イエス様を見本としまねすることで、人は強くて優しく、人に神から受けた愛を分け与えることができるようになれます。

2011年7月3日日曜日

「初めに、神は天地を創造された。  創世記1 章1 節



 ジョージ・フォアマンというボクシングの世界チャンピォンがいました。ずっと試合に勝っていましたが、とうとう負けてしまいました。ジョージは苦しみ、真剣にイエス様にこころを向けました。すると十字架のイエス様を心の目で見ました。それからジョージは10 年の間、イエス様の話を大勢にし、そのボクサーに復帰し、45 歳で再び世界チャンピォンに輝きました。今は、教会の牧師として伝道活動をしています。

「初めに、神は天地を創造された。  創世記1 章1 節

 神がすべてを創造されました。すべてのものの基準は神にあります。人間が中心ではなく、神が中心にあるということです。

 24 歳マギーは、教会に通っていましたが、「私はクリスチャンだ。」と言うのに悪口を言ったり、いやな事をしたりしている人を見て教会に行くのが大嫌いになっていました。ある日、新聞に「神さまを信じる人と信じない人のどちらが正しいか、対決する会がある」と書いてあり、マギーはクリスチャンの人達が負けるだろうと思って楽しみに見に行きましたが、圧倒的な強さでクリスチャンが勝ちました。マギーは「なぜクリスチャンが勝ったの?」と不思議に思い、そこの教会の勉強会に出席するようになりました。
 マギーは「イエス様は本当に自分の大切な人生をよくしてくれますか? 傷ついた自分を救ってくれますか? 自分が住むところも考えてくれますか? イエス様を信じることで健康で立派な人になれますか?」と問いかけました。教会に人達は真剣にマギーのために考えてくれました。マギーはこのように真実を語れる人たちをずっと求めていたのです。イエス様こそ本当に自分のことをそのまま受け入れてくださり、そのイエス様に従って生きている人達もそれを受け継ぎ同じようにしてくれることを知りました。「本物のクリスチャンってこんなに素晴らしい人なのだなあ。」とマギーは思いました。

 人が物事や事象の価値を決めること、自分を神( 基準) にすると、差別、犯罪、争い、混乱が生じます。「自分の人生だから好きにしていい」と開き直る人も少なくありません。創世記の始めに、神が創造主であり基準であると宣言されています。人間は神の栄光をあらわすために造られたのです。

2011年6月26日日曜日

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」ヤコブの手紙1章22節



 パン製造業最大手、山崎製パンは、国内のパン市場でシェア4 割を超え、年間売上約9 千億円です。この山崎製パンを率いるのは、クリスチャンの飯島延浩社長です。飯島社長がいつも立ち返る言葉は「さばいてはいけません。さばかれないためです」マタイの福音書7 章1 節です。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」ヤコブの手紙1章22節

 ヤコブは、聖書を読んでどうするべきかわかっているのに、行わないのは自分を欺ことだと言っています。御言葉を実践する事は、つらく、損をするように感じることもありますが、」そのことを通して信仰は固く立つのです。

 山崎製パンは、あるコンビニから、かつてオリジナルの商品を作ってほしいという依頼がうけ、飯島社長は、その要請に応えようと話を進めていましたが、最後に、そのコンビニの社長が、これまでの議論を無視したような、無理な依頼をしてきました。そこで、飯島社長は「・・・ヤマザキパンはヤマザキパンでやっていきます」と言い、その依頼を断りました。その結果、売上高は減りましたが、飯島社長は、取引先の言いなりになって品質が守れなくなることの方を防ぎたかったのです。
 現在、池の上キリスト教会の責任役員を務める飯島延浩社長は、多忙にもかかわらず月に二回、日曜礼拝の一時間前に、自分で勉強した聖書の御言葉を語っています。
 物流や小売にこびない姿勢を、山崎製パンが貫けるのは、「周囲が何と言おうとも『神の御心にかなう』道を歩むべきだという信仰が飯島の中にあるからだ」と、「日経ビジネス」の記事で書かれていました。

 御言葉を離れて、人生に意味はなく、この世のどんなものも、頼りにはならず、神の言葉だけが不変であると知った人は、そのことを知っただけではなく、その御言葉を実践しましょう。

2011年6月19日日曜日

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。 そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7章7節



 『求めなさい。そうすれば、与えられる。』こうした偉大な教えがもっと良く理解されていれば、実りない作曲の試みで、これほど多くの良質な五線紙が無駄になることもなかったろう」ブラームスは言いました。 音楽を通して御言葉を語り、名曲を作るという偉大な業がなせるよう「祈り」に生きた作曲家でした。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7章7節

 厚かましく、ひるまずに求めることは、神にとって迷惑ではありません。神はわたしたちの厚かましい祈りを喜んで待っておられるのです。
 体重が約100kg あったジュリー・ハッデンさんは、45kg の減量に成功したクリスチャンです。米国のテレビ番組に、肥満の男女を減量プログラムに参加させ、誰が一番減量したかを競わせる番組があり、ジュリーさんは2 位となりました。13 才のときに洗礼を受けたジュリーさんは、自分が何から救われたのか、よくわかりませんでした。ただ、酒を飲まず、ダンスパーティーにも行かず、礼拝を決して休まない「良い」クリスチャンに、良いことが起こると信じていました。決まりごとを守るだけの信仰生活から、神さまと個人的な関係を持つ信仰生活へと変えられたのは、減量コンテストのテレビ番組の収録中でした。初めて内面的に神と直面するようになります。ジュリーさんは、減量プログラム中、祈っては、御言葉を思い出していました。その御言葉の一つは、「あなたは、わたしの内臓を造り/ 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/ 驚くべきものに造り上げられている」( 詩編139:13~14a) でした。彼女は、自分の体は素晴らしく造られているのだと、神さまに激励されたのです。
 減量など、個人的だと思われるような祈りでも、神はその人に必要であるとすれば、かなえてくださいます。また、そのことを通してジュリーさんは、決まりごとだけを守る教会生活から、イエス様を通して、神さまと個人的に交わる信仰へと成長できたのです。

2011年6月12日日曜日

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 マタイによる福音書6章33節



 働いていた会社が4 回も倒産した経験を持つあるクリスチャンは、独立を考え、老人介護の施設「みくに」を立ち上げました。教会員の協力などもあり、普通なら不可能と思えるような、億単位のプロジェクトをゼロから始め、キリスト教の愛の精神に立って、介護の仕事を続けています。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 マタイによる福音書6章33節

 天の父は、わたしたちが必要なものをご存知です。明日の事を心配せず、安心して祈り、働き、そして楽しみなさいと教えています。まず「神の国と神の義」を求めるとき、すべて必要なもの、ことは与えられるのです。

 「私は神学生としてトイレ掃除をしながら週20 ドルの収入で暮らしています。先生はこんな私にも、毎日曜、献金皿に収入の10%、つまり2 ドルを献げろと言われるのですか」と。教授は、「それを怠ってはならない。もし神を信頼しているのならば、神はあなたに、週18 ドルで暮らすほうが、20 ドルよりも豊かに暮らせる知恵を与えてくださるからだ」と言いました。シューラー牧師は、10%を献げようと覚悟を決めます。それから6 年後の1955 年、カリフォルニアで開拓伝道することになりました。そのためオルガンを買おうと友人が経営する楽器店に立ち寄ると、「1800 ドルの電気オルガンなら、400 ドルを頭金にして、残りは月々36 ドルの36 回払いでいいよ」と友人は言いました。6 ヶ月間は教団から月々375 ドルの収入があります。その10 分の1、つまり毎月37 ドルの献金を月々36 ドルの支払いにあてることにしたのです。普段から10 分の1 献金をする習慣がなければ、オルガンの購入はしなかったでしょう。これが開拓伝道の第一歩でした。その後開拓伝道は発展し、今ではクリスタルカテドラル教会というとても大きな教会で礼拝しています。

 まだ来ていない明日のための心配はいりません。明日は死んでしまうかもしれません。しかし、今、生かされている事を感謝し、神にいただいた時間を、神の使命のために使いましょう。これがキリスト者の生き方です。

2011年6月5日日曜日

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れ たところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見 ておられるあなたの父が報いてくださる。」 マタイによる福音書6章31節



 「人は見た目が9 割」と言う本が数年前に話題になりました。また、「空気が読めない」という言葉がよく使われます。一緒にいる周りの人の気持ちがわからないという意味だそうです。しかし、人の目ばかりを気にして、神様のことを忘れてしまってはいけません。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」 マタイによる福音書6章31節

 「祈るとき、偽善者のようではいけない」とイエスはイエスは教えました。偽善者と訳されたギリシア語は「仮面をかぶったの役者」を意味する言葉です。祈りは口先のものではなく、神との結びつき求めるものなのです。

 「聖書には誤りがありえぬとしても、(聖書注解者や説明者のうちには)誤りを犯すものもあるかもしれません。そのうちでもっとも重大でよく起こる誤りは、つねにことばの( 文字通りの意味に) 固執しようとする場合で、こういうときはさまざまな矛盾だけでなく、重大な異端や冒瀆さえ生じかねないからです…( 聖書のうちにはむきだしのことば通りにとると、真実とはかなり異なったおもむきになる表現が多く、これは十分な理解力をもたぬ俗衆にも納得ゆくように工夫されたものですから、) 大衆とは一律にできない少数の人々のためには懸命な注解者がその本当の意味を述べ、そのようなことばが述べられた特別の理由を示すべきです…」。これは、地動説のガリレオ・ガリレイの手紙の一節です。この手紙から、ガリレオが聖書を良く読み、祈っていた人である事がよくわかります。ガリレオは、独り、神と対話し、その祈りの中で力を受けていたのです。

 「祈祷の人とは~祈祷を以て事を成す人である」と内村鑑三は言いました。神との対話のとき、独りで神に祈るとき、この世の雑音から隔離され、神の御声が聞きやすくなります。自らを聖別されたものとして、何をなすべきか発想が与えられます。心の底にある不安や恐怖を、誠実に神の前に注ぎ出し、へりくだりましょう。神からこの世に立ち向かう聖霊の力をいただき、希望と勇気が与えられるのです。

2011年5月29日日曜日

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイによる福音書5章44節


 坂本龍馬を斬った男、今井信郎は明治維新後、キリスト教を迫害することが正しい事と考え色々な妨害をしていました。しかし、横浜の教会で説教を聞いた事により、回心し、キリストを受け入れる者となりました。そして、自分が殺した坂本龍馬の法事にも参加しました。キリストによって、神と人を愛する者に変えられたのです。

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイによる福音書5章44節

 敵を愛するとは、敵の祝福を祈り、善を施すことです。イエスは実際に敵を愛し、その愛を十字架で示されました。十字架は敵を愛する力の源です。敵を愛するならば、そこは神の国となるのです。

  蘭印をオランダから解放した今村 均司令官は、それまで禁止されていたインドネシア語を復活させ、インドネシア人に自由を与えます。また、オランダ軍に投獄されていた独立運動の指導者スカルノ(後のインドネシア初代大統領)を釈放し、オランダ軍に破壊されていた石油製油施設を復旧させました。石油販売価格をオランダ時代の半額にし、それにより彼らの生活は向上します。更に今村は、捕虜となった英国・オランダ軍将兵を大切に扱い、家族と自由に公園を歩かせ、軍人としての誇りも保たせました。今村 均とキリスト教との出会いは、6歳という幼い日でした。親しい老婦人に連れられて甲府教会の日曜学校に通い始め、生涯にわたりイエス様を主、人生の師として信仰生活を送るようになります。時代的、立場的な制約から、洗礼を受けることはありませんでしたが、陸軍大将という、組織の最高幹部に昇り詰めても決して威張らず、毎朝、誰よりも早く起床し、正座して心を整えて聖書を読み、自分のことよりも部下や関係者のため、敵のためにさえ祈り続ける生活を送りました。また、人生の歩みそのものが、「受けるより与えるほうが幸いである」、「敵を愛せよ」と教えられたイエス様に忠実に従った生涯だったのです。

 ただ、良い人間になろうとすると、それが重荷となり、人は良くなりませんが、イエスを受け入れると自由の恵みを得て、イエス様により贖われる神さまの愛に応えようと、人は良い業を行うことができます。イエス様を信じる人は、神さまとの関係が正しくされるのです。そして、どんな人に対しても、神さまに受け入れられ、愛されているという実感を人々に与えるのが、教会やクリスチャンの存在意義なのです。

2011年5月22日日曜日

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」ルカによる福音書6章31節



 「自分にしてほしくないことは、人にしてはいけません」と置き換えると、ただ、他人に迷惑をかけないように、ということになります。これは人間( 社会に生きる人) の最低限の基準です。麻薬取締の警察官が、「麻薬をやっている青少年に、人に迷惑を掛けているわけではないから、いいだろ」と言われることが、とても残念だと、言っていたそうです。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」ルカによる福音書6章31節

 これは、黄金律( ゴールデン・ルール) と呼ばれる大切な教えです。神の愛をいただいた時、一番大切な「他人を愛すること」ができるようになります。

 「やっぱり、信仰を持っている人はちがうね」と、60 歳になって運転免許を取った田河水泡さん( のらくろの作者) は、にこにこしながら教会から帰ってきました。免許を取ったことを自慢すると、大抵の人は、「大丈夫ですか?気をつけなくっちゃいけませんよ。若い人と違いますからね。」と」心配するだけで、免許を取った本人のよろこびなど、問題にはしてくれませんでした。ところが、教会で免許を取ったことを言ったら、牧師や他の人が、「それは、良かったですね」と一緒に喜んでくれました。教会の人、キリスト者は、常に絶対者である神を信じ、魂のことを考え、人間の心情を大切にしている人たちです。まず、相手の気持ちを受け入れて、一緒に喜んでくれました。忠告などをする前に、相手の気持ちを受け入れて、共によろこび、共に悲しむ気持ちは、どんな人間関係にも大切なことです。

 「人に迷惑をかけるな」と世間では言います。しかし、神の愛を知る者は、全力で人を助けましょう。これが、神を愛する道、人生の目標なのです。「人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにしなさい」という、イエスの教え、さらに、これが守られるように、「求めなさい、そうすれば、与えられる」という約束を、わたしたちに与えられました。わたしたちは、神から恵みをいただけるので、人のことを考えることが出来るようになるのです。

2011年5月15日日曜日

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタイによる福音書5章16節



 交響曲の父と呼ばれたハイドンは、体も精神も弱って仕事が困難になったとき、しばしば心のなかにささやく声を聞きました。「この地上では、幸福で満たされた人々はとても少ない。皆、悲しみと不安に追い詰められている。いつの日か、お前の作品が、悩みつかれた人々に安らぎを与え、元気を回復させる泉となるだろう」この声に励まされハイドンは数々の名作を残しました。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタイによる福音書5章16節

 主は「地の塩、世の光になれ」と命じているのではありません。あなたがたは「地の塩、世の光」であると宣言しているのです。わたしたちが世の光たりえるのはキリストがわたしたちの中に住まわれるからです。

「究極の最高の人生を送っている」とオーストラリアの青年、デイビッド・リビィさんはうらやましがられていました。少し働いてたくさんのお金を稼ぐ事ができ、後は好きなサーフィンばかりして楽しんでいたからです。でも、デイビッドさんは心が満たされず、幸福感がありませんでした。ある時、クリスチャンのサーファーに出会い、彼が証の中で「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」( ヨハネ10:10) というイエス様の言葉を読みました。「豊かな命」、それが自分に必要だと思いました。なぜなら生きていても、命を感じることが出来なかったからです。そして教会に通いイエス様を信じて洗礼を受けました。好きなだけ酒を飲み酔っ払うという生活だった彼は、クリスチャンになってもしばらく仲間と酒を飲みに出かけていましたが、次の日には、それをしなければ良かったと思うようになりました。また、自分のすることがどんなに他の人達に影響を与えるかも考えるようになったのです。今は、日本人の奥さんと、サーフィンをする人たちに神さまの言葉を伝える働きをしています。今は日本で宣教師として、神さまの御用をしています。

 光であるイエスに告白し悔い改めましょう。神は、暗闇のような生活を消して下さり、人を救うことができる光の子としてくださいます。

2011年5月8日日曜日

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイによる福音書5章8節



 マザー・テレサは、インドで見捨てられ死に行く人々を救うため、スラム街に入りました。しかし、一人ずつ救済する活動の仕方は非現実的だと言われました。「私は大仕掛けのやり方には反対です。…『一人ひとりの触れ合い』こそ何よりも大事なのです」と答えました。1979 年、彼女はノーベル平和賞を受けました。その後、世界各地で人道的支援活動が盛んに行われるようになったのです。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイによる福音書5章8節

 山上の説教、八福の一節です。神の国に最も近い人は、心貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、哀れみ深いひと、平和を造る人、義のため迫害される人、彼らは神にのみ頼み、神の国の実現を求めているからです。

 日本が台湾を占領していた時代、台湾人の間宮静子という女の子は、クリスチャンであったために、日本人小学校で教師からいやみを言われ迫害されていました。小学校六年生の時、彼女は成績が一番でしたが、その教師は、「お前は、成績は一番である。しかし、クリスチャンだから悪い」と言い続けました。けれども少女は信仰を捨てませんでした。日本の敗戦によって、この教師は鹿児島へ帰ります。少女は牧師夫人となり、1965 年5 月に九州で行われた日本基督教団の全国婦人大会に招かれました。その折、鹿児島の婦人会長に何げなく「私の台湾の小学校時代の受け持ちは、S 先生でした」と話し掛けます。すると、相手の方は非常に驚いて、「それは、私の父です」と答えました。「あなたが、あの成績一番のクリスチャンの少女・間宮静子( 察宝珍) さんだったのですか。父は、あなたの信仰によって、敗戦後キリスト信者になりました。私もそうです。父は死ぬまで、あなたに申し訳なかった、と言い続けていました。そして、あなたの写真を大事に部屋に飾っていたのです」。こう言って、今は牧師夫人であり、婦人会長である二人の女性は、手を取り合って、神さまへの感謝の涙にくれました。

 福音は人の心と体と魂をいやします。わたしたちも、神の恵みを覚え、感謝し神の愛を体験し、それぞれの立場で愛を分け与える人となりましょう。

2011年5月1日日曜日

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」ルカによる福音書24章31節



 喜劇俳優のチャップリンの「ものまねコンテスト」が開かれたとき、チャップリン自身も、こっそりと出場しました。しかし、本人だと見破った審査員は、一人もいなかったそうです。本人がいるはずが無いという思い込みが、彼らの目を塞いでいたのです。

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」ルカによる福音書24章31節

 エマオへの道で、弟子たちはイエスとは気がつかず、話をしていました。夕食の席で、二人はイエスだとわかりました。ありえないと思っているうと真実を見失います。復活を信じるには信仰の目を開いていただく必要があります。

 エルヴィス・プレスリーは、スキャンダラスなイメージが強く、一般にエルヴィスのイメージは不良です。エルヴィスが麻薬の常用者だったという噂がありますが、心臓が弱く、糖尿病と高血圧もあり、処方された薬は飲んでいましたが、決して不法な麻薬を飲んではいませんでした。「エルヴィスは聖句を暗記していました。そしてキリストによる生まれ変わり( 回心)、信仰によって新しい人生経験をすることの必要性を信じていました。さらに彼は聖書の言葉を実生活に当てはめ、実行しなければならないと言っていました。彼は本当に強い信仰を持っていたました」と、叔母( 父の妹ナッシュ・プレスリー、女性牧師) は証言しています。彼は9 歳で洗礼を受けています。実は酒、たばこもやらず( 葉巻を時々たしなむ程度だったそうです)、礼儀正しい模範青年で、両親を大切にしていました。そして、人に分け与えること、愛すること、同情、配慮、赦すことなどをとても大切にし、持たぬ人々に富を惜しみなく分け与えていました。 また、エルヴィスは、白人歌手として初めて、黒人をステージメンバーに起用しており、人種差別とも静かに戦っていました。世俗的なラスベガスにおいて、一番好きだったゴスペル『輝く日を仰ぐ時』を歌い、成功を収めています。

 復活のイエス様を目撃しなくても、証人たちが記した福音書を読み、イエス様を救い主として信じ受け入れましょう。神さまを知る生き方は、幸せなのです。

2011年4月24日日曜日

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカによる福音書24章6節



 映画俳優シルベスタ・スタローンは無名時代、成人映画に出演したことがありました。成功後、その映画を買い取らないかと言う話がありましたが、断りました。「どんな過去があろうとも、神に心を向ければ生まれ変わることが出来ます」と、スタローンは語りました。

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカによる福音書24章6節

 イエス様は、私たちの罪の身代わりとして十字架に架けられ、私たちが神と正
しい関係になれるようにしてくださいました。そして3 日後に死者から復活され、
今もわたしたちを救い、希望を与えるために生きて働いておられます。

 米国のホイト夫妻の長男リックは小児麻痺でした。医者は「お子さんは植物人間であり、決して話すこともありません。次の子に期待しなさい」と言いました。しかし、母親のジュディーはリックの目に知性を感じ、牧師に相談しました。選択は二つあります。施設に入れて忘れること、もう一つは、一日づつ生きて息子を愛し、養い、他の赤ちゃんと同じように育てることです」。両親は愛情を注いで育てる決心をします。ふたりはリックに一生懸命話しかけ、アルファベットも教え、12 歳で首で操作するパソコンを使い意思を伝えること、車椅子にそのパソコンを付け、学校へも通えるようになりました。15 歳のとき、事故で全身麻痺になった大学生のためのチャリティマラソンに出場したいと父親が車椅子を押し、一緒に完走しました。レース後リックは「お父さん、走って押してもらっているとき、僕、障害者だってことを忘れていたよ」と言いました。その後二人は、マラソンを続け、3時間を切るまでになりました。リックは9年かけて大学も卒業し、トライアスロンにも挑戦するようになりました。医者は、リックは両親に悲しみ以外もたらさないと言いましたが、ホイト親子は、世界中の人々に、信仰と希望を与える者となりました。人間は不完全ですが、永遠の命が与えられれば完全になります。それが希望です。

 イエス様なしには、この地上でも、来世においても希望はありません。

2011年4月17日日曜日

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」テモテへの手紙一1章15節



 アメージング・グレイスの作詞者ジョン・ニュートン牧師は、かつて奴隷船の船長でした。アフリカから多くの人々を荷物として運び続けました。そんな彼もイエス・キリストによって救われ、信仰の無い人も感動する歌を作ったのです。

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」テモテへの手紙一1章15節

 パウロはキリスト教への迫害者であった自分でさえ招き、赦してくださる、主の救いを、自らの体験を通して証ししています。

 太平洋戦争中、三木忠直さんは、特攻機なんか作りたくないと反対しましたが、ロケット特攻機「桜花」を軍の命令により設計させられました。1945 年3 月、「桜花」は撃墜され、百数十名が戦死しました。「私の設計した飛行機で、多くの若人が国のために散っていきました。そのことに深く心が痛む日々でした」と、自己嫌悪と後悔の日々を送ります。そんな彼を救ったのは「凡て労する者・重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません」( マタイ11:28 文語訳聖書) というイエス様の言葉でした。そして37 歳の誕生日に洗礼を受けました。その後、三木さんは技術を戦争に使わせないと誓い、新幹線開発プロジェクトに出会います。当時、東京―大阪間は蒸気機関車で7 時間30 分もかかっていました。鉄道技術研究所は、東京―大阪間を3 時間で結ぶ「夢の超特急構想」についての講演会を開きます。しかし、国鉄本社の人たちは、「非現実的」だとして聞き入れません。ところが国鉄総裁からもう一回講演内容を聞かせて欲しいという依頼があり、ついに新幹線プロジェクトが動き出します。1963 年、0 系新幹線が完成、256km の世界最高速度を記録しました。その技術は、超高速列車の基本となり、世界中から目標とされる存在であり続けています。三木さんは生涯、礼拝を守り、鉄道技術の開発に取り組みました。

 罪とは、父なる神への信仰を持たないことであり、それがあらゆる問題を生み出します。その罪から救われ、神の御前に義となる道が、キリストの十字架の贖いを信じる信仰です。人が救われるためには、十字架を信じるしかないのです。

2011年4月10日日曜日

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ルカによる福音書22章42節



 悲しみを全てイエス様におゆだねして救いを得ましょうと、多くの人が慰められ、世界中で愛されて歌われている讃美歌『いつくしみ深き』はジョゼフ・スクラィヴィンが、大切な人を亡くした後、母を慰めるためにこの詩を書きました。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ルカによる福音書22章42節

 御心に適うならば、祈りは必ずかなえられます。しかし、大事なのは「御心のままに」と祈り、神の答えが望み通りでなくても、神に絶対に従う信仰です。

 日本人のクリスチャンはたくさんいます。初代文部大臣の森有礼は、日曜日には神を礼拝するためにと、日曜日を休みとしました。歯磨きのライオンを創設した小林富次郎は、事業の失敗から信仰によって立ち直り、晩年には伝道活動に専念します。19 歳で洗礼を受けた野口英世は、魂の目で細菌の研究をしました。「花」や「荒城の月」を作曲した滝廉太郎、「赤とんぼ」を作詞した三木露風、「ふるさと」を作曲した岡野貞一は、皆クリスチャンです。教会に行く日曜日は公務にあたらないという条件で東京大学の総長を引き受けた矢内原忠雄という先生がおられました。「特攻機」の設計をさせられた三木忠直さんは、戦後、信仰を持ち、平和のために技術を用いようと新幹線の設計に当たりました。もの作りではなく、人を作る事が大切、と信仰を持って事業に当たったソニーの井深大( まさる) 社長、宅配便を作り出したクロネコヤマトの小倉昌男社長もおられます。これらの方々は皆、逆境の中で、神さまの御前でへりくだり、自分の望みではなく御心がなされますようにと祈り、祈ったことと、神様の答えは違ったかもしれませんが、より、すばらしい導きに出会い、聖霊の力によって新しい発想、体験をして、神によって生まれ変わり、日本国を形成してきた人々です。

 祈りは、わたしたちを慰め、励まし、実際に導いてくださる聖霊が与られます。人間は努力だけでなく、聖霊によるひらめきが与えられなければなりません。それは祈りのうちに与えられます。御心が適うようにと祈り、愛の業を続けていきましょう。神がわたしたちを通して御心をなされるのです。
                   参考文献「成長」 CS 成長センター 「御翼」 アンカークロス出版

2011年3月27日日曜日

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネによる福音書11章25節



 ある老人ホームで、軽度の認知症のお年寄りがひなたぼっこをしながら会話していました。「あの世はどんなところかね」と話していると、もう一人が、「どうもいいとこらしいよ。誰も帰ってこないから」と言いました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネによる福音書11章25節

 人間は誰でも死にます。しかし、聖書は死が人間にとって終着点ではなく、また新たな始まりであると語ります。神の恵みにより、朽ちるものから、朽ちない永遠の者へと変えられるときなのです。

 不慮の事故で天に召された少女は、死ぬ前にある画家のイエスの肖像を見て、「イエス様は、全然あんなふうには見えないわよ」と、はっきり言いました。「 天使よ! 本当にきれい。ママ、見える? 天使の歌が聞こえる? こんな美しい歌って聞いたことがないわ。」7 歳で白血病のため天に召されたアンナちゃんは、死の直前、最後の力を振り絞り起き上がって叫びました。そして、彼女は息絶えました。両親は、それを見て、世界一の贈り物を受けたように感じたそうです。デビッド・ビーベル牧師は、長男を神経疾患で亡くし、次男も同じ病気だと知り、「これが進むべき道ならば、神など地獄に堕ちるがいい」と言いました。しかし、冒涜的なその言葉の中にある真実に気がつきました。それは、神の子は十字架に架かり地獄へ行かれたことです。キリストはすべての人間の罪を背負い、父から捨てられる体験をされたのです。牧師は神の声を聞きました。「息子よ。私はお前のことがわかる。お前の痛みがわかり、悲しみを支えよう。お前の言葉は悲しみを抑え切れずに出たものだ。それでも、私はお前を愛している」。親として、子どもに先立たれる程の悲しみはありません。その気持ちが、かえって神への信仰を深め、神の愛を知ることとなります。肉親を失う悲しみも、神を知る機会とされ、祝福と平安を得る生き方が出来るようにしてくださるのです。

 キリストを受け入れた者は、死後の永遠の命だけでなく、罪により死んだような状態から、新しい命が与えられ、他の人の傷に敏感で、目的を持ち、今までに亡い力で生きられるようになるのです。

2011年3月20日日曜日

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書10章42節


 No Bible No breakfast という言葉があります。聖書を開かなければ、食事を取らないという、決意を表した言葉です。日々の忙しさに心を奪われてしまいがちですが、本当に必要なことは御言葉に耳を傾けることです。

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書10章42節

 イエスが訪れた時、姉のマルタは食事などの世話を、妹のマリアはイエスの話を熱心に聞きました。イエスは必要なことは一つだけ、マリアはそのことを知っていると言われました。

 クリスチャンの映画監督ダン・マーチャントは、全米で「イエス・キリストは何をしたことで有名か、クリスチャンの印象は何か」と、街頭インタビューをしました。インタビューの結果、キリストに対しては良い印象を持っているものの、クリスチャンたちへのイメージは、「狂信的、気取っている、特定の人々を嫌う、偽善者、戦争」などと、良いものばかりではないということが分りました。クリスチャンたちは、自分たちの信仰を純粋に表しているつもりであっても、それが未信者の人々にどんな印象を与え、どう聞こえるか配慮するのが足りないのです。キリストに従う者として、イエス様がなされたように行動することが求められているのに、自分が正しいのだと主張し、議論に勝とうとしてしまいます。「自分の自己中心さ、忍耐のなさ、無知と傲慢さが、人々を神から遠ざけてしまう結果になった。クリスチャンとは、愛なる神を信じ、平和の君を愛し、礼拝する者である。理想の基準は、忍耐、親切、赦しであり、私たちこそ、真理と恵みに満ちた人間であるはずなのだ。そんな私たちが、なぜ他人に対し真理を押し付け、恵みを分かち合うことを怠っているのだろうか」。伝道のために、労力と時間を献げるときも、自分中心の思いからではなく、聞き手の魂の救いを願って行うべきなのです。

 人の魂を救うために、時間や労力、財産を献げましょう。評価の規準を神さまに置くときの行いには、自由さと、明るさと、力強さと、正しさとがあるのです。

2011年3月13日日曜日

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」ローマの信徒への手紙8章1節


 国家、社会、家庭が悪くても、神さまを信じる者は、世の光として輝き、地の塩として役立つことができます。そしてイエス様の霊によるお導きがあることを知っていれば、勇気と平安が与えられ、この世に立ち向かうことができます。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」ローマの信徒への手紙8章1節

 キリストによってのみ、人は罪を赦されます。罪とは神から離れることであり、神から手を伸ばしていただかなくては、人間自身の力で、罪を取り除くことは出来ません。神からの架け橋、それがキリスト、神の愛なのです。

 グリーフ(grief) の意味は、悲嘆、深い悲しみです。カトリックのシスター高木慶子さんは、人々の心と魂のケアを長年助けてこられました。高木さんのグリーフケアで忘れられないのが、4 歳の娘を亡くされた婦人でした。信号待ちの時、娘の手を離したとたん赤信号なのに道路に飛び出して、はねられてしまいました。お通夜でも、泣くこともできません。二週間後、高木さんが母親を訪問し、「いかがですか?」と尋ねると、母親は高木さんを見つめ、「あの子はどうしているんですか?! 今、どこにいるんですか?!」と叫びました。彼女は、手を握り、「ご安心ください。ユウちゃんはね、神様のところに行ってらっしゃるのよ。本当に神様がしっかりと抱いていらっしゃる。お母様が抱いていらっしゃるのと同じように、マリア様にしっかり抱かれているから大丈夫よ」と言いました。すると母親は高木さんの手を握り締めて、「本当ですね?! 本当ですね?!」と叫び、畳に頭を擦り付けて、ものすごい勢いで泣き始めました。涙を流すという癒しへの道を踏み出したのです。 無理して悲嘆を乗り越えた人は、他人に厳しくなる傾向にありますが、グリーフから癒された人は、より優しくなれます。グリーフケアによって、更に高い段階へと人は進むことができ、優しい社会が出来上がってくるのが高木さんの狙いです。

 誰にでも神の子とされ、天国に入る機会があります。それを求める人と伝える人が祈るとき、神さまの真理が現れるのです。

2011年3月6日日曜日

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7章7節



 「祈りについて探求しなさい」と、当時大学の教授をしていた理論物理学者、アインシュタインは、論文のテーマで迷っていた学生に言いました。時間と空間について長年研究を重ねてきたアインシュタインも、亡くなる前の数年間に深く知ろうとしたことは、神さまとの関わりについてでした。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7章7節

 神さまに願うものは、「イエス様の名によって」と制限されます。最後には、常に「あなたのみ旨がなされますように」と祈るべきなのです。
 東大大学院生のY 君は、JR で働くことが夢でした。特に電気機関車が好きで、JR 貨物の就職試験を受けました。面接後、携帯の電源を入れたら、実家の弟から「父危篤」の連絡が入っていたのです。その日の夕方、お父様は天に召されました。父は生前、Y 君が鉄道業界に就職したいと聞いて、鉄道総合技術研究所( 現に勤めていたクリスチャンの知人と引きあわせてくれました。葬儀後、JR 貨物の二次面接に行くと、三人いた面接官の真ん中にその方が偶然座っていたのです。 三日後、その方はY 君と個人的に会い、JR 貨物の総合職よりも鉄道総研
の研究職の方が向いているのではないかと勧めてくれました。それに従い鉄道総研を受けたY 君は見事、就職が決まりました。「小学生の頃からの念願だったJRで働けるという事実に歓喜しました。JR 貨物の受験者と面接官という立場で偶然の再会を果たし、お世話になった方々には本当に感謝は尽きません。今回の就職活動の経緯を考えると、主の導きを実感せずにはいられません」鉄道総研は、クリスチャンとなった元海軍技師・三木忠直さんが新幹線を設計した所で、今はリニアモーターカーを開発する最先端の技術を扱う研究所です。

 祈りとは、欲しいものを欲しい時に手に入れる手段ではありません。自分の願いを御心に適うものとするための霊的な訓練です。祈りの中で心を神さまに向け、御心に近づきましょう。御心とは、人が神さまの子として祝されることです。

2011年2月27日日曜日

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネによる福音書1章29節



 ある教会に、少しだらしない格好をした若い人がやって来ました。その人は床に座りました。それを見て、きちんとスーツを着た教会にいつも来ている老紳士が、その若者に近づき、若者の隣に座り礼拝しました。この老紳士は、イエス様の本当の愛をこの若者に優しく分け与えたのでした。
 
「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネによる福音書1章29節

 「世の罪を取り除く」とは、世の罪を引き受ける、という意味です。「小羊」とは、神さまに仕え、この世を支配する勇敢な者を指しています。世の罪とは、悪い行ではなく、神さまを信頼せず、自己中心に行動することです。

 稲見冬峰さんは、美味しい紅茶の入れ方や、パンの作り方を教えているクリスチャンのティー・コーディネーターです。紅茶やパン作りをとおして、人々にリラックスした時間を過ごしていただきたいと思っています。彼は小3 の時、ショッキングな出来事に合いました。一緒にプールで遊んでいた友達が、おぼれて死んでいたのです。それ以来、自分の命はいつなくなってしまうのだろうと、こわがるようになりました。生きているのがつらくて、死んでしまいたいほどでした。19 歳のとき、クリスチャンの伯父の家を訪ねました。伯父さんは彼が苦しんでいると知り、キリストの十字架の話をしてくれます。今まで、どんな話も聞く気になれなかったのに、イエス様の話は今聞かなければならない、という思いになりました。「いっぺんに信じることは難しいけれども、私はもうここで信じよう」と決心したのです。冬峰さんはイエス様を信じて歩むようになって、心の痛みもなくなり、いろいろなことが変わりました。紅茶の入れ方やパンやお菓子作りの先生の資格を持ち、生徒と楽しい時間をすごしています。過去のつらいことはイエス様によって全部いやされ、イエス様と触れ合った時のようなホッとする幸せな時間を人々に与えられるようになったのです。

 イエス様は、十字架の上で私たちの自己中心の罪を贖うために、死んでくださいました。それを信じて悔い改めることによって、私たちは神の子とされ、神さまを天の父として信頼する道をイエス様によって備えられます。

2011年2月20日日曜日

いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。ヨハネの手紙一 4章12節



 結婚したら、次の日から夫婦になるわけではなく、一生かかって本当の夫婦になるのだと、クリスチャン作家の三浦綾子さんは結婚したとき牧師に言われました。夫婦愛の成長が止まってしまっては、二人の幸せな時間はありません。

いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。ヨハネの手紙一 4章12節

 家庭ほど大切な場所はないのに、私たちは家庭の中で、無作法で、自分中心で、不親切になってしまいがちです。しかし、イエス様が、本当の愛が生活に入ってくるときは、すばらしいことが起こるのです。

 三浦綾子・光世夫妻の出会いにはこんなエピソードがあります。綾子さんが結核で13 年間も療養生活を送っていたとき、光世さんは、知り合いから見舞いを頼まれました。病気で寝ていた綾子さんを見て、光世さんは「これは治るのだろうか」と思いました。一年ほど立った頃、光世さんは綾子さんが死んだ夢を見ました。そこで、彼は、癒してくさいと、祈りました。その祈りの中で、「愛するか」という聖書の言葉が胸に迫ってきました。「結婚が神の意志ならばその愛をわたしにください」と必死に祈り、結婚を決意したのです。その後の見舞いで、「全能の父なる神さま、この堀田綾子さんをどうぞ、御心にかなうならば、おいやしください」と祈り、最後に、「もし、私の命が必要でありましたら、差し上げてもよろしゅうございます」と付け加えました。自分の命を引き換えにしてでも、治してほしい、という祈りに綾子さんは感動します。出会って四年目、「来年は... 二人でお父さん、お母さんに、新年の挨拶に来ることにいたしましょう」と光世さんは言いました。それが光世さんのプロポーズでした。

 「結婚は愛の学校」と三浦綾子さんは言いました。お互いに愛し合い、仕え合い、ふたりで力を合わせ、神様に与えられた使命を果たす。そういう家庭に、神様の限りない恵みがもたらされるのです

2011年2月13日日曜日

「 天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。」ネヘミヤ記2章20節


 「私は自分が正しいと思うことに進んで命を差し出します。自分の信念に従い、誠実に行動すれば、その死は報われると信じています」。非暴力主義で公民権運動を進め、公民権法を制定させた中心人物生前、キング牧師はテレビのインタビューで、こう答えました。たとえ殺されても、神がこの運動を成功させてくださると、信じていたのです。

「 天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。」ネヘミヤ記2章20節

 バビロン捕囚のころ、ネヘミヤは神の助けにより、エルサレムを再建しました。自己中心に落ち入らず、神が私たちの働きを導かれることを信じて、神がなさろうとしていることをなさろうとしていることに取り組んで行けば良いのです。

 バンクーバーオリンピック、スピードスケート米国代表のチャド・ヘドリック選手は、毎週、教会に通い、快適な人生を送っています。信仰厚い妻の実家が愛で満ちているのを見て、娘にもそうなって欲しいと願い、神の愛に満ちた人生を築いています。ヘドリック選手はこう語ります。「イエス様なしでは、私の人生は全く違った方向に向かっていたでしょう。そして、辛いときには、いつでも頼れる人が与えられてきました。人生に問題がないときは、簡単なことですが、辛いときは、人格が問われます。しかし、神さまにお委ねし、慰められるときは、生きてゆくのがかなり楽になります」と。また、「自分と家族がバンクーバーで素晴らしい時を過ごし、生涯の良い思い出をつくれるように。自分の実力が発揮できるように。そして何よりも、かつての自分のように、世界を敵に回し、暗い人生をおくっている人々が、神に祝されている自分の中におられる神を見て、生き方を変え、人生を楽しみ、人生を愛せるようになり、それぞれの人生で特別な
ことを成し遂げられるように、と祈ってください」と答えました。バンクーバーで彼は、男子1000m 銅メダルを獲得しました。

 人が自己中心的な願いをかなえるために、神さまの意志を曲げようとせず、いつでも謙遜になり、自分の栄光ではなく、人々の魂の救いのために、与えられた賜物が用いられるようにしましょう。

2011年2月6日日曜日

「 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」ヨハネの手紙一5章14節



 「歌のメッセージを聞いた人々が、聖書的な社会を作るようになることがわたしの願いである」と、「エル・シャダイ( 全能の神)」の作詞者マイケル・カード氏は言います。「エル・シャダイ」は、80 年代に米国のクリスチャン音楽界で大ヒットしました。

「 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」ヨハネの手紙一5章14節

 神の御心を理解し、御心を行うように心を従わせる時、そんなときの祈りこそ確信をもった祈りなのです。

 2008 年度の「音の匠」に、クリスチャンのナレーター・中村啓子さんが選ばれました。啓子さんの声は、JR 駅、エスカレーターの案内、空港バス、多摩モノレールなどの車内アナウンス、NTT ドコモの留守番サービス、104 の番号案内、117の時報などに用いられ、テレビ、ラジオ等でも幅広く活躍しています。啓子さんは、かつてCM で数々の賞を受けて売れっ子となり、この世的な幸福の絶頂を味わっていました。しかし、腹部に癌が発見され、手術のため入院した時、仕事仲間は誰も見舞いに来ませんでした。「自分は、仕事の能力という一面だけを買われていたに過ぎなかったのだ。このまま死んだら、何と薄っぺらな人生なのだろう」という思い、心から祈りました。「神様、もう一度命が与えられるなら、本当に人を愛することを教えて下さい」と。術後、さそわれて教会( 日野キリスト教会) を訪れると、讃美歌の歌詞「ゆるし」という三文字が啓子さんの目に飛び込んできました。本当の愛を求めて教会に一歩踏み込んだとたん、神さまから与えられたお答えが「ゆるし」だったのです。その瞬間、これが本物だ!という思いに満たされ、イエス・キリストの十字架によってのみ、人の罪は赦されることを知り、洗礼を受けました。

 「神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。」(ネヘミヤ2-8)とあるように、神の御心を行おうする者に、神は必要のすべてを備えてくださるのです。

2011年1月30日日曜日

「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマの信徒への手紙8章28節



 ジェシカ・コックスさんは、足だけで操縦するパイロットとなった女性です。彼女は、同じように両腕のない障害の少女に「人生をあきらめてはならない、大丈夫なのだ」というメッセージを伝えました。

「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマの信徒への手紙8章28節

神とともにあるとき、私たちは、どんな苦境に立っていても、守られています。結果は神にまかせ、勇気を持って、一歩を踏み出しましょう。

 高山右近(1552 ~ 1615) は、信長や秀吉に仕えた、キリシタン大名です。戦国時代に右近は最後まで愛を信じました。 12 歳で洗礼を受けた右近は、21 歳のとき、大阪・高槻城主、和田惟長に仕えました。惟長とは幼いときから共に過ごした兄弟のような間柄でした。しかし、惟長は人望のある右近をねたみ、右近に切りかかり殺そうとしたのです。右近は応戦し彼を殺してしまったのです。兄弟同然の惟長を殺したことを後悔し、苦しむ右近の脳裏によぎったのは、幼い頃に接した、「敵を愛せよ」というキリストの教えでした。右近は宣教師を招き、話を聞き、どんな敵も愛することで味方に変えられると、悔い改め、信仰を深めました。21 歳で城主となった右近は、キリストの愛を領地で実践しました。まず、領内各地に教会を建設し、貧しい人たちを雇い管理を任せました。また、ボランティア団体を組織し、戦いで親を失った孤児の世話や貧しい人たちの病気の治療を行いました。つまり、領民の生活保障や恩給制度のある福祉国家をつくったのです。また、多くのキリシタン大名したように、寺院を破壊せず、仏教に対しても隣人を愛する心で接しました。それまでの領主にはない、思いやりのある政策に人々は感動し、領民2 万5 千人7 割近くがキリシタンとなりました。右近は、神のご計画に従い、敵を愛し、勇気を持ってこれを実践したのです。
 人はキリストに従うがゆえに、いつの間にか損な役まわりを負わされ、苦境に立たされることがありますが、必ず祝され、勝利します。

2011年1月23日日曜日

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2章13節


 「理想とする教育をいったい何年で成就させるつもりか」と、勝海舟が尋ねると、新島襄は「およそ二百年」と答えました。どれだけ時間がかかっても、民全体が救われることを目指しましょう。神さまの御心は、全人類の救いだからです。

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2章13節

 自分に力があり能力があるから、何かを行うのではありません。神様は行動の意思やきっかけを与えてくださいます。それは神の御業が現れるためなのです。
 アリゾナのクリスという7 歳の男の子は警察官になるのが夢でした。しかし白血病にかかってしまいます。少年の話を聞いた警察官たちは、制服とヘルメットとバッジを用意し、名誉警察官に任命したのです。クリスは宣誓し、駐車違反の取締り、ヘリコプターからの監視もさせてもらいました。クリスは大喜びでした。5 日後、クリスは亡くなります。ほんの短い間でしたが夢はかなったのです。亡くなる直前、「お母さんも一緒に来てよ!」と叫ぶクリス君に、クリスチャンの母は「そうしたいけれど、神さまからこの地上で果たすべき使命が与えられている限り、お母さんはここに残って、世の中を良くする働きをしなければならないのよ。でも、霊の世界で、いつも一緒にいるわ、わかってね。」と言いました。一緒にクリスの願いをかなえてあげた仲間から、「世の中には、クリス君と同じように、夢をかなえて欲しいと願っている子がたくさんいるはずだ」と言われ、ボランティア団体を立ち上げます。すると、母親はやっと悲しみから立ち直ることができました。「メイク・ア・ウィッシュ」と言う名のボランティア団体、難病と闘っている子どもたちの夢をかなえ、生きる力や病気と闘う勇気を持ってもらいたいと願って1980 年に設立されました。
 私たちクリスチャンは、それぞれの賜物を用いて、自分に最も相応しい方法で、神さまの愛を実践するために召し出されているのです。

2011年1月16日日曜日

「王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである」ダニエル記6章24節



 苦しい事、悲しい事にあっても「どうか神さまのお望みどおりにしてください。強く乗り越えられますように」と、お祈りすることで、神様の子供として成長させていただけます。

「王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである」ダニエル記6章24節

 人生の危機にあった時こそ、祈り、主に信頼しましょう。ダニエルはライオンの洞窟に投げ込まれても、神を信頼し祈り続けました。

 ジョン・F・ケネディー大統領の母、ローズ・ケネディーはカトリック信者で、9 人の子を育てましたが、一人が知恵遅れで生まれた時、「神はどうしてこんなにひどいことをなさるのか」と神さまに背を向けました。一人の女中がケネディー夫人に言いました。「奥様、このことで奥様の人生を破滅させてはなりません。私は奥様をとても愛していますから、申し上げさせて下さい。奥様の心を、イエス様がお生まれになる飼い葉桶としない限り、幸せにはなれません」。夫人は女中を解雇しました。しかし、女中の愛に満ちた顔、優しい表情、魂から沸き上がる喜びが頭から離れないのです。夫人はひざまずき祈りました。「神さま、私の心を、イエス様がお生まれになる飼い葉桶として下さい」すると夫人は自分に神聖なものが入ってくることを感じ、知恵遅れの子への愛が生まれました。女中はケネディー家に呼び戻され、生涯共に暮らしました。 1962 年、ジョン・F・ケネディーの妹のユーニス・メリーが自宅を開放し35 人の知的発達障害の人を招いてデイキャンプを行いました。これがスペシャルオリンピックスの始まりです。今では、世界150 カ国以上に広まった知的発達障害者のオリンピックは、一人の女中が、信仰によってローズ・ケネディーを励ましたから起こったのです。

 神さまを信頼し、神さまの愛をこの世に現しましょう。神さまの御手が働くことを信じましょう。この世は、そのような人物をいつも必要としています。

2011年1月9日日曜日

「こう祈った。『神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え王を退け、王を立て知者に知恵を、識者に知識を与えられる。」ダニエル記2章20~21節



 「わたしもおだんごづくりをします。おしえてください。」小1 の理子ちゃんは、お母さんが参加できないので、お団子作りに行きたくないと言っていましたが、お友達のお母さんがお祈りをして電話をすると、1 人でもがんばるぞ! と気持ちを変えて、言ってくれました。

「こう祈った。『神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え王を退け、王を立て知者に知恵を、識者に知識を与えられる。」ダニエル記2章20~21節

 すべての問題解決の鍵は、神が握っておられます。自分が望むようにではなく、神様の御心が行われますように祈り、最善の解決策を与えていただきましょう。

 清里のキープ自然学校、その学校を建てたポール・ラッシュは、70 年ぐらい前、神さまの御用をするために日本にやってきました。ラッシュは日本の人たちにイエスさまのことを伝えて、幸せになってもらいたいと思い、イエスさまのことを伝えるための合宿所、キープ自然学校を作りました。そのために必要なお金は、アメリカの人達から献金されたものでした。ラッシュは、「私たちの日ごとの食物を今日も与えてください。」という御言葉を信じて、必要なものは神さまにおゆだねしていました。ところが戦争があり、お金が集まらなりました。つらい数年間でした。しかし、アメリカの薬品会社のオーナーが亡くなり、その遺言で、たくさんのお金が送られてきたのです。ラッシュさんの祈りはしっかりと神さまに届き、忘れられていませんでした。彼は日本人がイエスさまのことを知り、豊かになってほしいと願っていました。そのために、神さまが必要なものを与えてくださると信じていました。そして守られ、いまでもラッシュさんの働きが伝道のために生かされています。

 苦しいとき、大きな問題を抱えているとき、すべてを支配しておられる神に目を向け、真に畏れるべき方に祈るとき、他の何をも怖がることはないのです。神は、わたしたちに、最善の道をお示しになります。

2011年1月2日日曜日

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマの信徒への手紙12章2節



 ある牧師夫人が、学校のクリスマス会の練習のとき、「クリスマスは神さまがお生まれになった日です。みんなでお祝いしましょう!」という台本をみて、「クリスマスは神の子イエスさまがお生まれになった日です。」と書き換えてもらいました。真実を伝えるのは勇気がいりますが、神さまが必ず力をくださいます。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマの信徒への手紙12章2節

 人をへつらったり、ごまかしたりすることをやめましょう。本当の救いは、イエス様が私達の罪のために十字架にかかってくださったと信じることです。それを自分達の都合の良いように変えて伝えてはなりません。

 700 年前までイギリスでは聖書ラテン語で、勉強したわずかな人しか読むことができませんでした。当時の教会には、聖書に書いていないことを言う司祭がいて、救いを求めている人達は、間違った教えにより苦しんでいました。大学教授で、神学者だったジョン・ウィクリフは、ラテン語の聖書を読むことができました。聖書に書いていないことを教える教会に反対し、裁判にかけられます。裁判官が「今の教会の力をとって何が残るのか」と尋ねると「真実の力です。神さまの御言葉、聖書が残ります」と答えました。その結果、ウィクリフは、大学の教授を辞めさせられました。しかし、「ラテン語の聖書を英語に翻訳しよう!そうすれば真理が伝わるのだ」という強い思いが湧き、長い時間と苦労を重ねて英語の聖書が出来ました。おかげで、今のように世界中の人が御言葉を受け継ぐことができるようになりました。ウィクリフは、偽りを語ることに反対し、人々に真実を伝えようと、同じ思いの仲間と困難を跳ねのけ、聖書を翻訳したのです。

 「良い事をしなければ」「悪い事をした人」は救われないなど言うのは間違っています。十字架で赦せない罪はありません。キリストにある真実は、イエス様を信じて救われることです。この世にながされず、真実を語りましょう。