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2010年6月27日日曜日

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマの信徒への手紙10章13節



 米国の牧師が、教会員の家を訪問しました。すると、子どもが「今、お母さんには会えません。お母さんは9 ~ 10 時の間を祈りの時間にしています」と言いました。40 分ほどで、母親が出てきました。その顔は平安に満ちて輝いていました。牧師はなぜ長女が宣教師となり、息子二人は牧師となっているのかを知りました。 

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマの信徒への手紙10章13節

 名前はその人の本質を表すものです。 イエス様は人々に御名を現わされました。それは、神さまがどんなお方かを示した、という意味です。人が神さまの御名を口にできるのは、イエス様の十字架によって神の子とされたからです。

 「神さま、お赦し下さい。わたしは罪を犯しました」ロリーは、祖母の葬式の帰り、突然怖くなり泣き叫びました。娘アシュリーが、プロジェリア( 早期老化症) と診断された母親のロリーは、毎晩、娘を人に預け、麻薬パーティーへ出かけていたのです。ある日、娘が学校から貰ってきた新約聖書の前書き「悲しかったら、怒っていたら、さみしいと思っていたら、恐れていたら...」を読み、これは全部自分のことだと思ったロリーは、一気に新約聖書全部を読みました。気持ちが軽くなり、毎日、聖書を読むようになると、不思議なことに、麻薬も酒もタバコも一切口にしなくなりました。教会に行くようになったロリーは、牧師からキリストが罪の贖いのために遣わされた話を聞き、神さまは本当におられ、ずっとわたしと一緒にいてくださった、と強く感じるようになります。ある時、「ブンッ!」という音がして、何かの光が一瞬、彼女の脇を通り過ぎ、「あ、神さまは本当におられる。わたしと一緒におられるんだ」と感じました。その瞬間から、それを頭だけでなく、心でも理解することができるようになったのです。やがてロリーもアシュリーも洗礼を受けました。

 イエス様は、わたしたちのために十字架で犠牲となられ、神さまは愛であり、近い存在としてくださいました。だから、イエス様を信じ、人は悔い改めるならば、誰でも神と人を愛する者と生まれ変わり、真に価値のある人生が送れるのです。

2010年6月20日日曜日

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネによる福音書12章24節



 大きなことを成し遂げるために 力を与えて欲しいと神に求めたのに、 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。 偉大なことができるように健康を求めたのに、 より良いことをするようにと病気を授かった。 幸せになろうとして宝を求めたのに、 懸命であるようにと貧しさを授かった。 世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに、 神の助けを知るようにと失敗を授かった。 ( 無名の人の祈り )

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネによる福音書12章24節

 「一粒の麦」とは、イエス様のことです。イエス様に従うクリスチャンも一粒の麦となれます。自己中心さを悔い改め、神様と人に命を捧げることによって、愛に満ちた価値ある人生が与えられます。ステファノは、迫害を受ける中「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。

 サイゼリヤば、ファミリー・レストラン業界で、不況の中でも売り上げが伸ばしています。創業者は、会長の正垣泰彦氏です。品質を落とさず合理化を図り徹底した効率化、無駄を省くこ とでコストを下げ、そして社会貢献のために、商品価格を下げ続けてきました。正垣氏の経営方針には、母親の教えが染み込んでいます。、成功とは、自分の心が正しくなることなのだと教えられました。サイゼリヤの会長室には、正垣氏のお母さんが送った書が額に入れられています。文頭の一節です。これは、有名なカトリックの祈りです。

 人が神様に用いられるのは、自己中心さを悔い改め、自分のためだけの目的や野望を捨てる時です。個人的な野望を捨てて、神様と人に命を捧げる生き方が、価値のある人生です。地に落ちた一粒の麦となって、多くの美を結ばせていただきましょう。

2010年6月13日日曜日

ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」使徒言行録5章29節



 日野原重明医師は、牧師であった父から、三つの『V』について教えられていました。「大きな夢を持つ」Vision.. そのために「勇気を持って行動する」Venture。死後かもしれないが「勝利する」Victory。成人病の名称を、20 年もかかって生活習慣病としたのも日野原先生です。神と人のための計画、行動は、必ず実現し発展して行くのです。

ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」使徒言行録5章29節

 使徒たちは、どんな状況にあっても、まず神様を第一としました。彼らは、自分たちの使命が、復活のキリストの証人であること、知っていました。

  教会学校に通う、男の子がそろばんの検定試験のため、友達と日曜日に勉強することになりました。母親は、お昼からにしたら、と言うと、男の子は、3 時からサッカーがあるので、少ししか勉強出来ないと言い、母親はそれでは、教会学校を9 時から9 時半までして、その後にしたらどうかと言いました。彼は学校で、友達に理由は言わずに、9 時半から勉強しようと言いました。その晩、その友達から電話があり、「10 時まで、教会学校に行くから、10 時半からでいい」と聞かれ、彼は「うん、分かった」と答えました。彼は、友達が教会学校に行っていることを知らなかったのだと思います。モーセの十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。私たちは、このように神の言葉に従うべきなのです。それは、人生祝福への道だからです。

 クリスチャンとして生活して行くとき、人間ではなく、神に従わなくではならない時があります。いつも、人の顔を伺う様な態度は健全な信仰とはいえません。人ではなく、神を畏れかしこみ、神に従いましょう。 

2010年6月6日日曜日

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。使徒言行録3章6節


 ヘレン・ケラーは、日本に身体障害者福祉の運動を起こすために、戦前に1 回、戦後2 回、日本を訪れています。当時の障害者は、法の恩恵はなく、就職もできず、組織も、福祉施設もありませんでした。ヘレンは、障害者支援と福祉制度の必要性を各地で講演し、3 千万円( 今の価値で25 億) を超える寄付が寄せられました。そして、昭和24(1949) 年、身体障害者福祉法案が可決されたのです。

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。使徒言行録3章6節

 使徒たちは、兄弟愛を実践し、貧しい人々や異邦人の暮らしを助けていました。そのため、人々から好意を持たれていました。これが、キリストを受け入れた人の姿でした。

  あるクリスチャンの小5 になる女の子が、交通事故で三ヶ月の重傷を負いました。女の子に過失はなく、運転手は家出をしていた青で、
車検も切れていたため警察に捕まりました。留置所からご両親に謝罪の手紙を書いてきたので、母親は相手を責めず、返事を出しました。「入院中は、ご家族の方に何度も来ていただき、感謝いたしております。これを人生の転機として、今後は明るい光の中を歩んでいただくことを心から願っております。 この本は、どのように生きていったら幸福になれるかを聖書に基き書かれたものです。少しでも人生が豊かになるように、お役に立てればと思いお贈りしたいと思いました。私ども家族も、K さんの今後のことをお祈りしています。」と言う内容でした。女の子の母親には、相手を責めず、赦す勇気がありました。相手の救いを願う思慮深さがありました。加害者の救いを祈って手紙とキリスト教の本を贈ったのです。

 キリストを受け入れた者は、自己中心的な性質が変えられ、神と人とを愛する者へと生まれ変わります。そして、他人の問題や困難を自分のことのように考えるよになるのです。お互いに、他人のことを思いやる姿は、人々から好感を持たれるのです。