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2010年12月26日日曜日

「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」ルカによる福音書2章31~32節



 クリスマス礼拝では、4 本のキャンドルを灯します。それは希望、平和、喜び、愛の象徴です。これらは、すべて神さまから賜物として与えられる性質です。努力では得られず、買えず、命と同様、神さまから与えられる恵みなのです。

「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」ルカによる福音書2章31~32節

 ルカによる福音書には、エリザベツ・マリア・ザカリヤ・御使いの讃歌と、救い主をお遣わしになった主を讃える讃歌が続きます。シメオンの讃歌は、神の救いが、全ての人に約束されていることを明確にしています。

 パトリックは、眼球がなく、ひじとひざを真っ直ぐに伸ばすことができず、更に、背骨も曲がらないよう、二本の金属棒が入れられています。障害を抱えながらも、彼はこれまでに、ピアニスト、トランペット、ボーカリストとして数々の大会で賞を獲得、7 つ以上のテレビに出演、雑誌の取材も多く受けています。また、全米各地、カナダ、南米、ヨーロッパ、アジアで演奏しています。彼は、成功の秘訣を「愛することをやって、やっていることを愛しなさい」であると言い、その人生は、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはす
べてが可能です」( フィリピ 4:13) を現わしています。彼は、できないことではなく、できること、障害を持つ代わりとして与えられている能力を特権と考えており、見えないことで、内面だけを見られることは、素晴らしい賜物だと考えています。神さまを愛する両親、二人の弟、周囲の人々から愛され、賜物を引き出させてもらい、世界中に愛なる神さまの存在を証ししている人生は幸せそのものです。

 神さまは、罪深い私たちを救われるために、大切なひとり子であるイエス様を送ってくださいました。今もわたしたちを救い、希望を与えるために生きて働いておられます。イエス様なしには、地上でも、来世においても希望はありません。

2010年12月19日日曜日

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカによる福音書2章14節



 4 世紀、嵐にあった旅人を助け、幼い子どもを守り、貧しい人に贈り物をしたキリスト教の司祭ニコラウスがいました。貧しくて三人の娘を嫁がせることの出来ない家に、真夜中、こっそりと金貨を煙突から投げ入れ、それが靴下の中に入った、という伝説があります。彼がサンタクロースです。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカによる福音書2章14節

 神であるイエス・キリストが、人性をとり人間となられました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」ヨハネ1:14と、あるとおりです。神さまは人に立ち直る機会をお与えになりました。

 クリスマスになると貧しい人々に100 ドル札を配る謎の男がいました。彼はシークレット・サンタと呼ばれていましたが、自分の死期を知り、他の人にもまねをしてもらいたいと、ついに本人ラリー・スチュアートさんは名乗りでました。2007 年、58 歳でなくなるまで1 億5000 万円以上、寄付をしました。彼は貧しい家庭に育ち、自分で会社を起こすも、何回も失敗し、無一文になったとき、つい、レストランで無銭飲食をしてしまいます。財布を落としたとごまかそうとすると、レストランのオーナがテーブルの下から20 ドル札を見つけたふりをして彼に差し出し、「あなたのでしょう」といいました。彼は罪悪感でいっぱいになり、「いつか、自分が人を助けられるようになったら、そうします」とお祈りをしました。その後、ラリーは事業に成功し、現金を貧しい人に配りました。困っている人に、お金を渡すのはお金持ちとしての使命であり、このことから与える喜びとキリストの犠牲愛を示したかったのだと言います。

 イエス様は、裁くためではなく、赦すためにこの世に来られました。その大きな愛を知り、イエス様を救い主として受け入れ、あらゆる恐れを取り除いていただき、赦していただき、与えるものとなりましょう。

2010年12月12日日曜日

「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救すくい主である神を喜びたたえます。」ルカによる福音書1章46・47節



 カリフォルニア大学の心理学教授、ロバート・エモンズ博士は感謝することと、人の心と体の健康への影響について研究しました。その結果、ただ、感謝するべきことを記録しただけで、幸せを感じ、頭痛になったり風邪をひくことが少なくなりました。

「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救すくい主である神を喜びたたえます。」ルカによる福音書1章46・47節

 聖霊によって、救い主を身籠ったことを知ったマリアが、感謝の祈りをしました。彼女は自分に特別な恵みを受ける理由があるとは思いませんでした。むしろ、それは畏れ多いことだと感じていました。とるにたらない私たちに目を留めてくださる神さまを覚えることに、礼拝の感謝があるのです。

 1979 年、交通事故に遭い、下半身麻痺となったダニエル・ゴットリーブ博士は、集中治療室に入院中、自殺してしまいたいと思っていました。ある晩、夜勤の看護婦が「誰もが自殺したいと思うときがありますか」と心理学者の博士に相談してきました。彼女は、博士自身がまさに自殺したいと思っているとは知る はずがありません。自殺願望は異常ではありません、と博士が言うと、看護婦は彼女の人生で悩んでいることなど話していきました。彼女が去った後、博士は「 自分は体に障害があっても、他人を助けられる」と気づきました。そのことが博士の命を救い、数年後、仕事に復帰したきっかけとなったのです。やがて、家庭問題に焦点を当てた電話相談のラジオ番組「家族の声」が、表彰されるほどの人気で、新聞に連載記事も書いています。神さまは、とるにたらない私たちを選び、神の業を実現なさいます。

 神さまは、自分は立派な人間でないと思っても、人にとってかけがえのない存在とさせてくださいます。神さまに心を向けていると、神さまは、それを祝福に変えてくださる。ですから、わたしたちは、いつも神さまをほめたたえ、感謝することが大切なのです。

2010年12月5日日曜日

「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」 詩篇95篇1節


 ベトナム戦争中、9 歳のときにナパーム弾でやけどを負ったキム・フックさんは、クリスチャンとなり、十字架上のイエス様の祈りを知り、敵を赦し感謝できるようになりました。自分があの爆撃でも死ななかったのは、「互いに愛し合いなさい」という御言葉を実行するためだと、戦災孤児を助ける働きをしています。

「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」 詩篇95篇1節

 主、神様は偉大な創造主です。私たちは、その神様の礼拝に招かれています。そして救い主が、地上に来られました。大いなる喜びが、そこにはあります。

 フレッド・スミス氏は、自分の会社経営し、モービル石油などの大企業の経営コンサルタント、20 社の役員を務めてきました。スミス氏の信仰が成長したのは、逆境の時でした。「順境の時に学んだことなど何一つない。誰もが落ち込む時はある。しかし、苦難の時には真剣に祈るから、信仰が成長するチャンスなのだ。人生の目的は、キリストと似た姿になることであり、そのために、試練の時はどうしても必要である。苦難に直面したら、神が罰しているのだなどと考えてはならない。それは訓練の時であり、次第に試練を感謝出来るようになる」と語っています。偉大な創造主である神を礼拝し、共に喜び、自分を通して人々に神さまの力をもたらすのは最高の人生なのです。
 スミス氏による人に分け与えることのできる5 つの恵み
 1. 受け入れてあげる恵み
 2. 信頼してあげるという恵み
 3. 紹介してあげるという恵み
 4. 健全なユーモアという恵み
 5. 問題点を指摘してあげるという恵み

 喜びを持って神を礼拝しましょう。救い主イエス様が地上に来られました。イエス様により魂が救われ、永遠の命に希望を持ち、わたしたちは、イエス様の声、手、足となって平和を作り出すために、この世に遣わされているのです。

2010年11月28日日曜日

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」ヨハネによる福音書4章24節


 「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主の名を誇る」詩篇20:7 にあります。聖書から軍事力を正当化するようなことは、神を正しく礼拝している態度とは言えません。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」ヨハネによる福音書4章24節

 サマリアの女にイエス様が語った言葉です。「神は霊」であるから、人間も霊の領域「魂」で神様を礼拝しなくてなりません。「霊と真理」で礼拝するとは、魂が聖霊で満たされるように、自分自身を献げることなのです。

 アメリカ真コーメック神学校、バークハート教授は、礼拝に「認識」「人生のリハーサル」「宣教」の三つの次元があると言います。
1「認識」 神様が愛と愛と正義恵みに満ちた方であると認識し、受け入れる。神様に自分自身を開放し、新しく自分を変えてくださる現実を受け入れる。
2「リハーサル」 リハーサルは登場人物の性格づけをし、セリフを覚え、役を演じられるように繰り返す。礼拝は神の子となるためのリハーサルである。
3「宣教」 礼拝がキリスト者の生活のモデルとなるとき、礼拝が「認識」「リハーサル」の場となるとき、キリスト者が隣人と社会に対し、何をなすべきか明らかとなる。それが「宣教」となるのである。  J.E. ハークバート『礼拝とは何か』
 結婚問題など、リハーサルなしで臨むとき、多くの悲劇が生まれています。しかし、聖書を通して、わたしたち人類が犯してきた様々な過ちを知ることができます。

 礼拝において、わたしたちの魂が、神様からの夢、思想、理想、願望で満たされることが、人生のリハーサルとなります。礼拝が、キリスト者の人生の練習だとすれば、キリスト者の実生活は、「礼拝的」なものとなるべきなのです。

2010年11月21日日曜日

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」箴言3章6節


 ある人が「お祈りは弱い人がすることだ」と言いました。でも十字架にかかられたイエスさまが「彼らは何をしているのか分からないのです。彼らを救うためには神さまに従います。」とおっしゃいました。弱い人はこんな事出来ません。

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」箴言3章6節

 ソロモンは神さまからいただいた知恵により、イスラエルを治めましたが、慢心し、自分を治めることは出来ませんでした。自分中心ではなく、いつも、神様を見上げ、神様の教えを守って行くところに、祝福があり、幸せがあるのです。

 ケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースさんは、子どもの頃から教会に通っていました。大人になって、まず蒸気機関車の機関士をしました。しかし、病気や怪我の手当のことを会社と話し合っていたところ、会社を辞めさせられました。その後、ガソリンスタンドの経営を始めました。その方針は「自分がして欲しいと思うことを他人にもしてあげなさい」でした。お腹を減らしてお店にくる人を見て「車にガソリンが必要なように、お客さんにも美味しい食事が必要だ」と考え、フライドチキン、ビスケットなどを用意しました。その中でフライドチキンの美味しさが評判になり、今度はガソリンスタンドをやめて、レストランにしました。お店はいつもお客さんでいっぱいでした。 ところが、高速道路が出来た事で、お店の前を通るお客さんが減り、とうとうお店も閉め、お金もなくなってしまいました。その時カーネルさんは65 歳でしたが、「神さま。どうか私のフライドチキンのアイデアを成功に導いて下さい。そうしたら、あなたの分を渡します」とお祈りし、車で1 軒1 軒レストランに、ケンタッキーフライドチキンのレシピを宣伝してまわり、フランチャイズを造り、それが今では世界中に4 千ものケンタッキーフライドチキンのお店が出来たのです。

どんな苦難にあっても神さまの事を忘れずに、祈りながら乗り越えましょう。なにをするにも神さまが味方してくださらないやり方では、うまくいきません。

2010年11月7日日曜日

「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。」歴代史上28章9節



 クリスチャン医師・日野原重明先生は、牧師であった父親から「大きな夢(vision)を持ち、その実現のために勇気をもって行動する冒険(venture ) があれば、いつの日か、死んだ後かもしれないが、必ず勝利(victory) が実現する」と、三つのVについて教えられていました。人から出た計画や行動は自滅しますが、神さまから出たものは、誰もその業を止めることはできません。

「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。」歴代史上28章9節

 ダビデは神殿建設を息子ソロモンに託しました。それは神の計画でした。ダビデは、主を信頼することを教えました。わたしたちは、神に守られ、支えられ、祝福されていることを覚え、感謝と讃美を持って魂から神に仕えましょう。

 宣教のためハイチを訪れたトニー・カンポーロ牧師が、少女3 人に呼び止められました。「おじさん、10 ドルで私は一晩おじさんのものよ」と言いました。牧師はホテルと部屋番号を教え、30 分後に3 人とも来なさい、と言いました。ホテルに戻った牧師は、3 人の少女に、ディズニー映画を観せ、お菓子を食べさせました。彼女らはディズニー映画を観て、大笑いし、夜中の1 時頃には、寝込んでしまいます。牧師は「私は現地の言葉を話せず、彼女たちをキリストに導くこともできない。少女たちは、明日の晩、再び街角に立ち、10 ドルで自分たちを売るであろう。何も変えることができていない」と思いました。その時、内面に声が響きました。「一晩だけでも、お前はあの少女たちを、再び『子ども』にしてあげられた。一晩だけでも、彼女たちは、楽しい時が過ごせた。お前は自分にできることを精一杯やった。それでよいではないか」と。神さまが求められるのは、各自ができることだけであり、それ以上のことではないのです。
 
 小さな行いでも、神さまから出た救いのための計画や行動は、聖霊の導きにより限りなく発展して行きます。結果は神さまにお委ねすればよいのです。 何か永遠的なものを求めて歩むことが大切です。イエス様を迎え入れ、神さまが私たちを通して成そうとしておられる業を始めましょう。

2010年10月31日日曜日

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます。」コリントの信徒への手紙一 10章13節



 小林富治郎さんは、事業に失敗し自殺しようとした時、聖書の言葉、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」( ヘブライ12:11) を思い出しました。そして、現在のライオングループを創設したのです。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます。」コリントの信徒への手紙一 10章13節

 ダビデは英雄となったのもつかの間、ソウル王に妬まれ命を狙われる状況に追い込まれます。人生には絶望的な時があります。不幸の中にあっても、この先に絶望的なことも祝福に変えてくださる神のご計画があると知りましょう。

 「瞬きの詩人」と呼ばれた水野源三さんは、9 才のとき病気で、首から下は麻痺し、ロもきけない、ただ見える、聞こえるだけとなりました。12 才の時、町の教会の宮尾牧師が訪れ聖書を贈りました。信仰が育てられ、13 才で洗礼を受け、両親もクリスチャンになりました。詩を書き始めたのは、18 才の頃。五十音を書いてもらい、自分の望む字を指さすと目で瞬きをして合図を送る方法です。その後、読売新聞に投稿した句が入選し、四冊もの詩集を出しました。
「悲しみよ」 悲しみよ、悲しみよ  お前が来なかったら、つよくなかったら
私は今どうなったか  悲しみよ悲しみよ、お前が私を
この世にはない大きな喜びが  かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ

源三さんは、人々に希望を与え、イエス様へと導きました。

 絶望の時も神を信じましょう。全てに神の支配と祝福のご計画があるのです。

2010年10月24日日曜日

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピの信徒への手紙 4章13節


 ドイツ人のジョージ・ミュラーは、ロンドンで牧師となりました。ミュラーは、浮浪児を助け、寄付を募らず、信仰と祈りだけに頼ることで、神さまが生きて働いておられることを、人々に証ししたいと願いました。神さまはいつも必要な食物を備えてくださり、借家で30 人の孤児を収容して始まった救済事業は、25 年後には、2000 人以上の孤児が収容できる施設へと発展しました。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピの信徒への手紙 4章13節

 大男で歴戦の勇士であるゴリアトに、まだ少年で武器も身につけていないダビデは、「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」( サム上17:45)と言いました。神様が勝利に導いてくださることを信じるとき、不可能と思えるような困難に立ち向かえるのです。

 「主よ あなたの平和をもたらす道具として私をお使いください。憎しみのあるところには愛を 不当な扱いのあるところにはゆるしを分裂のあるところには一致を…」
 戦乱の中、父親も毒殺されたマザー テレサが9 歳の頃、祈りました。やがて、彼女はインドのスラム街で人々の救済活動を行います。しかし、世間は彼女のやり方を批判しました。自己満足ではないのか、と言うのです。彼女は、批判を意に介さない態度を取りますが、内面では悩んでいました。友人の手紙に「神の偉大さに比べて、私はなんてちっぽけなのか。殆ど、無に等しいかもしれない。」と。自問を繰り返すマザー テレサに1979 年、ノーベル平和賞の受賞の知らせが届きました。受賞式で彼女は、共に祈りましょうと呼びかけまた。それは、「聖フランシスコの平和の祈り」でした。絶望の中、彼女に希望を与えた祈りです。

 私たちは、自分の力では勝てない戦いに直面することがあります。私たちは無力でも、神様が勝利に導いてくださる信仰を持って、困難に立ち向かいましょう。

< 平和の祈り> アッシジの聖フランチェスコ
ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
                     アーメン

2010年10月17日日曜日

「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見えない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』サムエル記上16章7節



 エルヴィス・プレスリーは不良のイメージが強いのですが、実は敬虔なクリスチャンでした。「エルヴィスは聖句を暗記していました。そしてキリストによる生まれ変わり( 回心)、信仰によって新しい人生経験をすることの必要性を信じていました。さらに彼は聖書の言葉を実生活に当てはめ、実行しなければならないと言っていました。彼は本当に強い信仰を持っていたました」と、叔母( 父の妹ナッシュ・プレスリー、女性牧師) は証言しています。

「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見えない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』サムエル記上16章7節

 背も高く、容姿も美しかったサウル王が、主に従わず退けられ、まだ少年であったダビデが神に選ばれました。神様は見た目ではなく、その人の心、魂の姿を見ておられます。

 アメリカのルネー・ボンディさんは、夜中にべッドから落ちて首の骨を折り、その日から歩く事も、腕や指を使うことも出来なくなってしまいました。婚約したばかりで、歌手としての道も歩き始めた時でした。それが突然一晩で、彼女の人生は大きく変わってしまったのです。しかし、体が不自由になったショックは大きかったのですが、神さまが自分のことを愛し、配慮してくださる方だと知っていたので、前向きな態度で、まっすぐに問題と向き合うことが出来ました。彼女の両親や兄弟は、愛を持って彼女の生活を支え、婚約者もいつも彼女が笑顔でいられるようにそばにいてくれました。リハビリを続けて、数年後には美しい歌声も戻りました。今では、結婚して子どもを無事出産して幸せに暮らし、神さまの愛に満ちたCD を何枚も出してい ます。

 私たちは自分の心の状態に無頓着です。自分の力では、神の前に正しい心を保つことが出来ません。心を見ておられる神の前に、傷のない心をを持つことが出来るように、主により頼み、助けていただきましょう。

2010年10月10日日曜日

「見よ、主は御目を注がれる主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」 詩篇33篇18節



 アメリカの大きな教会の牧師が、朝食のとき高校生の娘を、きつくしかりつけてしまいました。娘は、そのままさびしく学校へ出かけていきました。自分にも間違いがあると気がついた、その牧師は、昼の仕事を全部断り、学校で校長にお願いして、昼食の時間に娘をレストランに連れて行きました。そして娘に朝のことを謝り、楽しく一緒に食事をしました。この牧師は、いつもイエス様の愛を忘れずに、間違ったことをしたら子ども達にも正直に謝り、真理から離れないように子育てをしました。今では5 人の子供は全員神さまを信じて、教会の仕事を手伝っています。

「見よ、主は御目を注がれる主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」 詩篇33篇18節

 「御目を注がれる」とは、神様の祝福があると言うことです。目に見えない神様の存在を意識し、どんなときでも従いうべきであります。

 ヘレン・ケラー(1880 ~ 1968 米国人) は、1 歳7 ヶ月で熱病にかかり視力と聴覚を失いました。そのため話すこともできなくなり、気性は激しくなります。そんなヘレンをサリヴァン先生は優しく愛し、握った手を使ったコミュニケーションと点字を教え、ラドクリフ大学( 現ハーバード大学) にまで通わせました。ヘレンは著書、『私の宗教』の中で、以下のように信仰告白をしています。「以前狭苦しい考えを持った人々から、キリスト教徒でない者は皆神の罰を受けると聞かされて、自然反抗心を起こしていました。それは、異教徒の中にも真理のために生き、真理のために死んだ人々がいることを知っていたからです。しかし、ヒッツ氏の訳した本を読んで、キリストこそ神を表し、新しい命を人に送り込むものであることを知りました。私が最も愛読しているものは聖書です。私の辞書には悲惨という文字はありません」と。宗教の枠を超え、イエス様に従う人は救われ、神さまに祝されることを知って、彼女は安心したのです。ヘレンは、「神様から愛を頂いて、他人への愛を成長させて頂くこと、これが人生の大切な目的であって、そのために目が見えていようと、見えまいと、関係な
いのだ」と言って、どの人も分け隔てなく愛しました。

 神さまの恵みを覚え、感謝することで神さまの愛を体験し、それぞれの立場でその愛を人々に分け与える人となりましょう。

2010年10月3日日曜日

「あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」申命記8章6節



 救世軍の創始者ウィリアム・ブース(1829-1912) は言いました。「女性が泣いている限り、わたしは戦う。幼い子供が飢えている限り、わたしは戦う。男たちが刑務所に出入りする限り、わたしは戦う。酔っぱらいが残っている限り、街頭に哀れな女性がいる限り、神の光を受けていない一人の魂でもある限り、わたしは戦う。終わりまで戦う」と。この言葉は現在も略称“WWW”(WhileWomen Weep- 女性が泣いている限り) として語り継がれています。

「あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」申命記8章6節

 神様を信じ、神様の戒めを守りなさい、と言っています。戒めとは何でしょう。マタイ22 章で、イエス様は、最も大切なことは、神と人とを愛することだと言われました。

 18 才のフィリピン人歌手シャリース・ペンペンコは、アジア人として初めて、全米ヒットチャート・トップ10 入り(8 位) を果たしました。子供の頃、父は、母に暴力をふるうようになり、二人は離婚しました。母は、歌手を目指していましたが、夢をあきらめました。シャリースの希望も、歌手になることでした。母は、シャリースの歌声に慰めを得ていたと言います。12 才になったシャリースは、フィリピンのオーディション番組「リトル・ビッグ・スター」に出場します。審査員から「視聴者が求めるのは、スタイルが良くて美しい歌手なんだ。プロになるのは、あきらめた方がいい」と言われました。母は「私は歌っているあなたを見ているだけで幸せよ」と娘を慰め、シャリースは看護師になって母を助けようと決意します。夢をあきらめたシャリースのところに、米国のオーディション番組から、出演依頼がありました。彼女は、母を米国に連れて行ける、という思いだけで、番組に出演します。すると、歌唱力が絶賛され、これがきっかけで米国の一流プロデューサーに認められ、シャリースはメジャーデビューをしたのです。「 辛い時も、絶対に落ち込まないようにしてくれたし、何よりも愛情を注いで支えてくれました。お母さんが愛してくれたから、私は歌い続けるのよ」とシャリースは母に手紙を書きました。カトリックの信者である彼女たちは、イエス様への信仰ゆえに、母子が互いに神の戒め「愛」を実践してきたのです。

 神様は 私たちの弱さを理解し、真理を教え、罪を赦し、私たちの価値を認めてくださいます。他の人に対し、神様がしてくださったように接しましょう

2010年9月26日日曜日

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ペトロの手紙一 4章10節



 14 歳でプロのテニス選手になり、女子で世界2 位となったアンドレ・イェーガー。天才少女と言われた彼女は、19 歳で肩の故障のため引退しました。その後、神さまがもっと大きな仕事へと導いてくださることを信じ、彼女は、自分の持っているお金を全てささげ、立派な宿泊施設を建てました。そこは、癌と戦っている子ども達が1 週間無料で招待され、馬での散歩、いかだでの川くだり、釣り、水泳、工作など楽しい時間を思いっきりすごす施設です。アンドレはここで子ども達に神 の国の愛、笑顔、光、平安、喜びとエネルギーを与えています。

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ペトロの手紙一 4章10節

 神さまからわたしたちに、優れているものが与えられています。それは、イエス様の愛を表すために使うように頂いた贈り物です。何が優れているかは、人により違います。それが集まると、パズルが出来上がる様に神さまのご用ができます。だから他の人の得意な所をうらやましがる事はありません。自分にとても大事な良いものが与えられている事を思い出して感謝しましょう。

 盲目の音楽の天才、レックス君(17 歳) は、どんな曲でも一度聴けば、すぐにピアノで弾けてしまいます。また、即興演奏が得意で、創造性に優れています。しかし、記憶力は乏しく、アパートの間取りも覚えられません。四角や三角の簡単な図形も分らず、一人でシャツのボタンもはめられません。レックス君は脳に大きな腫瘍があり、手術で取り除いても、盲目で自閉症という障害が残ってしまったのです。
 ショックでその現実を受け止められず、自分の人生は終わったと感じていた母親キャサリンの人生に、神さまが入ってこられました。キャサリンが教会に通うようになると間も無く、レックス君の2 歳の誕生日にキーボードが届けられたのです。するとレックス君は握っていたこぶしを開き、キーボードを弾き始めました。母は、それは神さまから直接与えられたものだと確信したといいます。5 歳半でピアノのレッスンを始めると、先生は、レックス君の演奏には、「神聖なる神の御手が働いている」と言いました。

 私たちに与えられた優れたものは、すべてイエス様を通して神様から頂いたものです。イエス様の愛をみんなに伝えるために、その得意なものを発揮しましょう。それは良い贈り物として人々の魂に届けることがでるのです

2010年9月19日日曜日

彼かれは答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」ルカによる福音書10章27節



 東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザーは、捕らわれて獄中で虐遇されているときに、なぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのかと考え、「憎悪を真の兄弟愛に変えるキリストの教えに心が向いた」と言いました。その後、彼は宣教師として、隣人として、神の愛を伝えるために、日本に戻ってきました。最初の年には、数千人の人がイエス様を受入れたそうです。

彼かれは答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」ルカによる福音書10章27節

 「自分のように」とは、「イエスさまが、自分のために十字架に架かってくださった」ということです。神さまは、同じ犠牲愛をもって、互いに愛し合いなさいと言われました。

 真珠湾攻撃隊の隊長で淵田美津雄さんという人がいました。彼は、戦争が終わってもアメリカ人を憎み、復讐を考え、アメリカ軍に虐待された日本人の話を聞き、訴えようと思いました。ところが、アメリカの女性から温かく世話をされたという話に心を動かされます。彼女の両親は宣教師をしていましたが、スパイだと疑われ殺されました。2 人は最後の時も聖書を開き、祈りを捧げました。彼女は殺された両親の祈りに応え、憎しみの気持ちを捨て日本人のために一生懸命世話をしたのでした。淵田さんは話を聞いて、なんて美しい話だろうと感動しましたが、なぜその女性が敵国の人達に優しくできたのか分 かりませんでした。ある日、淵田さんは渋谷に出ると、一人のアメリカ人が道行く人々にパンフレットを配っていました。そこには「私は日本の捕虜でした」と題してあり、アメリカの軍曹の写真が掲載さ れてあったのです。それはかつて東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザーの入信手記でした。彼は聖書を読んでみようと思い、聖書をあちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカ23:34「父 よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」のところで、彼はハッと、あのアメリカの女性の話が頭にひらめいたのでした。敵を赦す愛、彼はアメリカの女性の話がはっきりと分かりました。両親の祈りに思い至ったのです。その日、彼はイエス・キリストを救い主として受け入れました。

キリストは十字架上の死をもって、愛を実現されました。友の魂を救うために、命を献げる以上の愛はありません。

2010年9月5日日曜日

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節



 「 テーブルを4 人で囲み、聖書の話として、紙に鉛筆でぶどうの木を描きながら、『ぶどうの木』の話をしました。『この” 神様” という木の先の枝につながっている者は、いつまでも一緒なんだよ。この枝は純平、この枝は薫、これがお母さんで、これがお父ん』」。様々な理由で親と暮らせない子供たちの里親をしている坂本洋子さん著「ぶどうの木」からの抜粋です。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節

 イエス・キリストにつながっていると、人生は豊かな実を結びます。一方、肉が生み出す実とは、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」とガラテヤの信徒への手紙5 章19 ~ 21 節にあります。

 坂本洋子さんの長男(最初の里子)純平くんは、17 歳で事故に遭い天に召されました。その当時、家から離れていた純平くんからの、最後の手紙の一節です。「俺は今、間違った考えをしていたことに気がつきました。俺はどこにいようと、お父さんとお母さんの子どもに変わりはないんだとあらためて思いました。『私はまことのぶどうの木、あなたがたは枝です』久しぶりにこの言葉を思い出しました。俺が児童相談所に行く前の日に、テーブルを囲んでお父さんお母さん薫ちゃんと4 人で聖書を読んでいる光景を今でもはっきりと思い出せます。~中略~ 又いつか一緒に暮らせるといいね。だけどもう無理かなと思うこの頃です。だけどそれでもOK。働いて近くにアパートを借りればいいことだし、それならいいでしょ?まァ、ずっと先のことだけど。それと10 月1 日に審判で少年院に行った場合、住所とかは調査員の人から連絡が行くと思うから。俺からも手紙書きます。いつも神様に祈っています。お父さんお母さんも薫ちゃんも秀樹君も朋美ちゃ
んも、体に気をつけて病気しないように頑張ってください。」長男の死を知った2 日後、「彼にしてやれなかったことを、新しい子にしてあげよう」と、夫妻は新しい里子を迎えにいきました。里親として、社会の無理解や差別と戦い、20 年以上、子ども達を「主につながる枝」とし、育てています。

 主につながる者は、お互いに愛し合います。絶えずイエスさまの救いを意識し、祈りましょう。主は、聖霊の力により、良い実を結ばせてくださいます。

2010年8月29日日曜日

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書10章11節



  2005 年、トルコで羊飼いが、朝食を食べ、羊から目が離れてしまったとき、一頭の羊が崖から飛び降りたのです。すると、残りの1500 頭も後につづいて、崖から飛び降り、初めの450 頭は死に、後から落ちた羊は、谷底の羊がクッションとなり助かりました。羊飼いは羊を導き守ります。パレスチナでは、強盗に立ち向かい羊を守って死ぬ羊飼いもいたそうです。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書10章11節

 聖書では、教会は羊に例えられ、イエス様が「羊飼い( 牧者)」と呼ばれます。良い羊飼いであるイエス様は、羊のために命を与えられました。イエス様の十字架は、悲劇的な犠牲ではなく、イエス様自身が望まれた勝利の物語なのです。

 クリスチャンが目標とするべき生活は、聖書を読む ペトロ一 2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」 祈る テサロニケ一 5:17「絶えず祈りなさい。」 証しをする ヨハネ一 1:3「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」 教会生活をする a 礼拝する 出エジプト20:8「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」 b 指導者に素直になる コリント二13:8「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」 c 信徒と交わり、奉仕する フィリピ2:3-4「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 d 献金する コリント二9:6-7「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

 イエス様は、従う者たちの状況や体験、直面している試練をご存知です。その愛に触れ、イエス様に従う人は、羊の様な良い性質を持っています。1. 人を傷つけない 2. 柔和である 3. 忍耐強い 4. 有益である 5. 羊飼いに素直である 6. なごやかである 7. 神に捧げものをする。

2010年8月22日日曜日

「 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」使徒言行録27章25節



 ジョージ・ミュラーは、ロンドンで牧師となりました。ミュラー夫妻は、浮浪児を助け、寄付を募らず、信仰と祈りだけに頼ることで、神さまが生きて働いておられることを、人々に証ししたいと願いました。すると、神さまはいつも必要な食物を備えてくださり、借家で30 人の孤児を収容して始まった救済事業は、25 年後には、2000 人以上の孤児が収容できる施設へと発展しました。

「 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」使徒言行録27章25節

 パウロは嵐の舟の上、絶望的な状況の中で確信を持って人々に言いました。神の目的を妨げるものはありません。どのような試練があろうとも、神の目的がわかっているならば、神のみこころのうちを歩むならば、迷うことはありません。

 戦前、シュレーヤ宣教師夫妻は盛岡にが遣わされていました。そこの農民は、貧困、栄養失調、疫病に苦しみ、迷信が多く、借金や貧困のため、娘達を売っていました。宣教師夫妻は宗教教育センターを設立、幼児教育、保護者や幼稚園の先生の教育、貧しい娘たちの教育、青年活動、職業訓練などを始めます。センター内には図書館があり、聖書、英語、ドイツ語等も教え、レクリエーションも行われ、盛岡で最初の文化的設備で、神さまの教えと、奉仕と愛の精神が説かれたのです。しかし、戦争が始まり、シュレーヤ宣教師はスパイ容疑で逮捕されました。牢屋の中で、イザヤ54 章10 節「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。」の御言葉が支えでした。壁に十字架とクリスマスツリーを描き、クリスマスを祝いました。彼は半年後、釈放され、米国に帰されます。米国で夫妻は、「日本は米国のように平等な民主主義ではないので、
上からの命令にいやでも従わなくてはならないのです。日本人はみんないい人です。戦争が終わって、私たちがまた日本へ行ったら、みんな心から歓迎してくれることを確信しています」と訴えました。終戦までの3 年間、講演を1000 回以上行い、その体験を『嵐の中を』という本にまとめたのです。戦後、シュレーヤ宣教師は再来日し、岩手医大や短大で聖書の講義をし、1980 年天に召されました。

 神さまは必ずよいご計画をお持ちであり、私たちを最善の道へと導いてくださるのです。神さまに従うのがクリスチャンの務めです。イエス様の栄光を表す力は、信仰により実を結んだ出来事と、御言葉に対する信頼から与えられるのです。

2010年8月15日日曜日

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」テモテの手紙二 4章2節



 アニメでは、「クララの馬鹿!」と言って、ハイジは足の悪いクララを励ましました。原作では、ハイジはクララを一生懸命励まし、歩けるようになった時、二人で神さまに感謝の祈りをささげました。この物語は、今も世界中の人々が励まされています。「アルプスの少女」の作者、スイスのヨハンナ・シュピーリさんは、神さまから頂いた賜物を用いて人々を勇気づけた人でした。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」テモテの手紙二 4章2節

 パウロは反対に会いながらも、2 年間、エフェソの町で福音を宣べ続けました。伝道は、教えること、戒めること、進めること、地道で根気のいる働きなのです。そのような働きの中で、主のことばは前進していきました。

 「アルプスの少女」の作者、ヨハンナの作品は、全て神さまへの信仰に基づき、光と希望と勇気を与えます。ヨハンナに神さまのことを伝えたのはヨハンナの母でした。ある日、母がヨハンナに聖書の御言葉から「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えました。ヨハンナは「どうして、こころの貧しい人が幸いなのですか?」と聞いたら、「生きている人はみんなやさしさや思いやりを求めています。そのことを知っている人が心の貧しい人です。」と教えてくれました。愛と優しい心をもって人のためにつくす人が天の国に行けるのだとお母さんはいつも生活の中で教えてくれました。ヨハンナは大人になり、人を助けるための仕事をしていました。ときに作文が上手だったのを活かしてお話を作っていました。ある時、友達の父から、お話がすばらしいので本にして、儲かったお金を教会活動のお金にしてほしいと頼まれました。ヨハンナは神さまのために役に立つようにと思い本を出したのです。「アルプスの少女」もその時に出来たお話です。自分のためではなく、神さまのすばらしさがみんなに伝えることができるように、人に勇気を与えるよう書きました。
今でも、このお話は、世界中の人に神さまのすばらしさを仕え続けています。

 どんな時も、私たちは、神さまの国のすばらしさを伝えていきましょう。福音は、人を励まし、勇気づける力です。それは、祝福へとつながっていくのです。

2010年8月8日日曜日

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒言行録16章31節



 父親の4 つの役割とは、
第一に、家族の暮らしの必要を満たすこと。
第二に、家族の指導者の役割。
第三に、家族を外の世界から守ること。
第四に、霊的な方向を示すことです。
子どもが正しく育つために、父親の役割は大切です。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒言行録16章31節

 まず、パウロは自分自身の信仰を明らかにし、自身の救いを明確にしなさいと言っています。その態度や姿勢が、家族を救いへと導くのです。信仰は、私たちの救いだけでなく、その信仰により救いは、大きく広がっていくのです。

  約100 年前、ライト兄弟は飛行機を発明しました。その飛行機は世界で初めてエンジンとプロペラで動き、自由に操縦できるものでした。そのライト兄弟のお父さん、ミルトン・ライト司教は牧師であり、神さまへの信仰をしっかりと受け継いでいました。優しい父でしたが、安息日には必ず神さまを礼拝することを徹底させました。ですから、ライト兄弟は、日曜日にはフライトをしないようにしていまた。ミルトン司教の理想は人々に仕えること、人間の好奇心と科学の真価を認めること、そして、神さまへの深い献身でした。また、ミルトンの父( ライト兄弟の祖父) ダン・ライトも、篤い信仰家であり、読書、ものを考えることに日々を送りました。この強い信仰が、ライト兄弟の父親・ミルトンに伝わり、またライト兄弟にも受け継がれたのであろうと記している人がいます。息子たちが飛行機の発明に成功したという知らせを電報で知った父は、驚きもせず、彼らならば目標を達成すると信じていたと語りました。そして息子たちに、栄光を奪おうとする者が出てくるだろうと警告しました。特に、名声には気をつけるよう激励し、礼拝に出席し、品行方正な態度は、発明よりも、ずっと役に立つだろうと語りました。後に、どのようにして偉大な業績を成し遂げたのかと聞かれた時、兄のウィルバーは「良い父と母を見つけなさい。そして、オハイオ州に住みなさい」と答えました。

 神さまによる善悪の基準を示す人となりましょう。イエス様への信仰こそが、人生を満ち足りたものとし、家族を神さまの御前に導くのです。

2010年8月1日日曜日

「主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」使徒言行録15章11節



 「のらくろ」を描いた漫画家の田河水泡さんは、「サザエさん」の作者で、弟子である長谷川町子さんの影響でクリスチャンとなりました。水泡さんは亡くなる前に、占い師から家の間取りが悪いと言われて引っ越す人がいるのはなぜなのだろう、悪魔のことは信じられるならば、神さまの愛がどうして信じられないのだろう、と書き記しています。神さまは愛の方であると信じることで、人間は悪から守られ、誰でも一番よい方向へと導いていただけるのです。

「主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」使徒言行録15章11節

 恵みとは、「キリストによる贖いの業を通して、無償で義とされること」です。救いとは、真の自由、幸福を与えることです。ペトロは、誰でも、自己中心を捨て、謙虚にキリストを受け入れる信仰によってのみ、平安を得ると言いました。

  詩人の八木重吉は、東京高等師範学校( 筑波大学) 在学中に聖書に、イエス様の言葉に触れ、洗礼を受けました。しかし、28 歳で肺結核となり、30 歳で天に召されます。病床で、ますますイエス様への信頼を深め、恵みと平和が大きくなり、平安と希望に満ちた詩を数多く書き残しました。
 「雨」   雨のおとがきこえる
       雨がふっていたのだ
       あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
       雨があがるようにしずかに死んでゆこう      八木重吉
イエス様について彼は親戚に手紙を書いています。「…私はまずその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。( 中略) その人の他人に対する態度、行い、言葉に非のうちどころがありません。( 中略) そしてなんとも云えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。これこそ自分の長い間探していた者だと信じました。」イエス様による救いと神の国を確信し、病気で死が近づいても平安でした。自分の力で何かしようというのではなく、神さまの力にまかせ、神さまにささえられていたのです。残された妻も信仰によって強く生き、無名だった重吉の作品を世に知らせました。

 誰でも、どんな人でも、神の子となり、救いを得るただ一つの道は、自己中心を捨て、キリストの十字架の贖いを受け入れる信仰を持つことです。真の平安はそれ以外の方法で得ることは出来ません。

2010年7月18日日曜日

「わたしたちは、自分自身を宣のべ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。コリントの信徒への手紙二4章5節



 クリスチャン弁護士の佐々木満男先生は「ビジネスと信仰」という題の講演の中で、「信仰とビジネスは共に聖書の原理に従うべきである。信仰とビジネス( 職業・社会生活) を一致させた人々も大勢います。例えば、矢内原忠雄氏( 東大総長)、速水優氏( 日銀総裁)、三谷康人氏( カネボウ専務) などです。周囲から( 社会から)さまざまなバッシングを受けましたが、その信仰のゆえに職業生活を通して神さまの栄光を現しています。」 と言いました。

「わたしたちは、自分自身を宣のべ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。コリントの信徒への手紙二4章5節

 パウロは、自分が何かを成し遂げたのではなく、自分の実力ではなく、キリストの栄光が彼に現れたのだと、そして、全ては、全ての人の救いを求めるイエス・キリストのため、人々に仕え、イエス様が救い主であることを伝えることが、彼の務めであると書きました。

 戦後のアジアは、反日感情ばかりあると思われがちですが、インドネシアは親日国です。それは戦時中、インドネシアを統治していた陸軍大将・今村 均の政策のお陰です。蘭印解放後、今村 均司令官は、禁止されていたインドネシア語を復活、インドネシア人に自由を与えます。また、独立運動の指導者スカルノ( インドネシア初代大統領) を釈放し、更に、捕虜となった英国・オランダ軍将兵を大切に扱い、家族と自由に公園を歩かせ、将校にはサーベルの携帯を認めるなど、軍人としての誇りも保たせました。今村 均は6 歳のころ親しい老婦人に連れられて甲府教会の日曜学校に通い始め、イエス様を主、人生の師として信仰生活を送るようになります。時代、立場の制約から、洗礼を受けませんでしたが、陸軍大将に昇り詰めても決して威張らず、毎朝、正座して聖書を読み、自分のことよりも部下や関係者のため、敵のためにさえ祈り続ける生活を送りました。「受けるより与えるほうが幸いである」、「敵を愛せよ」と教えられたイエス様に忠実に従った生涯だったのです。

 クリスチャンは人や自然を神さまにせず、創造主なる神さまに従いましょう。イエス様を救い主(キリスト)と宣べ伝え、自己中心的ではなく、イエス様のために人に仕える人生を送りましょう。

「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」使徒言行録11章26節



 ある市で、小学5 年生と中学2 年生全員にアンケート調査をしたところ、「生まれてこなければよかった」と考えたことのある子供が3 分の1 もいたそうです。こんな豊な日本で、生きていることを喜べない子供がいます。人間にとって、最も悲しむべきことは、病気や貧困ではなく、自分は、役に立たない、不必要な人間だと、思い込むことです。

「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」使徒言行録11章26節節

 クリスチャンという言葉は、最初は軽蔑、小馬鹿にしたあだ名でした。しかし、アンティオキアのクリスチャンたちは、その生き方によって、軽蔑された名前を全ての人を驚かせる程の勇気と愛の名前にしました。

 マザー・テレサは、この世の最大の悪は、孤独な人に対する愛が足りないことだと考えました人は、誰かを愛し、誰かから愛されることで生きていけるのです。マザー・テレサは「世界平和を実現するためにどうしたらいいですか」という質問に、「家に帰って、家族が喜ぶ様なことをしてあげることです。」と答えました。神から愛されていることを知った時、人を愛せるようになります。人への愛の業を行うとき、神の国の幸せを体験できます。「人はみな、神のおられる天国にあこがれる。だが、今すぐいっしょに天国にいることができる。それには、今このときに、いっしょにしあわせであること。ただし。いっしょに、今、しあわせでいるということは、神が愛したように愛し、 神が手助けなさるように手助けし、神が与えるように与え、 神が仕えるように仕え、 神が救うように救い、四六時中いっしょにいて、苦しむ人の姿をとっておられる神に手を触れることである。」 『マザー・テレサ』( 女子パウロ会刊)

 イエス様は、友人、敵、知人であろうがなかろうが、自分に利益が、あろうがなかろうが、愛しなさいと教えられました。神は愛であり、愛のない人生に価値を見いだすことは出来ないからです。イエス様に従い、その姿に近づかせていただくことが、クリスチャン、キリスト者なのです。

2010年7月11日日曜日

「神がイエス・キリストによってーこの方こそ、すべての人の主ですー 平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。」使徒言行録10章36-37節


 フランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694 ~ 1778) はカトリックを批判し、「百年もすれば、聖書は博物館でしか見かけない忘れられた本になるだろう」と予言しました。それから百年後、彼の家は聖書協会の建物になっていたといいます。霊感の真偽は、それが聖書の言葉と一致しているかどうかにかかっているのです。

「神がイエス・キリストによって-この方こそ、すべての人の主です- 平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。」使徒言行録10章36-37節

 イエス様は、全ての人の救い主なのです。神さまは聖書の御言葉を通して、夢や幻を通して預言者に語り、霊感を与えました。ペトロは異邦人を、全世界の人を、受け入れなさいというメッセージの幻を見て、霊感を得たのです。

 ライオン株式会社株の創業者・小林富次郎氏(1852 ~ 1910 年 埼玉県出身) は、マッチ製造を手がけ、世界へ輸出しようとフランスから最新鋭の機械を導入しました。しかし、操業直前、大洪水が起こり、無一文どころか賠償まで負わされ、自殺以外にないと考えたました。その時、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」( ヘブライ 12:11)という聖書の言葉を思い出します。3 年前、洗礼を受けたときに牧師からの言葉でした。今の苦難も、神さまはお見通しで、生死の瀬戸際でこの言葉を思い起こさせてくださったと、気付かされました。「この試練は私を鍛え、成長させるためのもの。」と、霊感を受け、もはや死にたいとは思わなくなりました。富次郎は工場の機械を売却し、小林富次郎商店を開設、牧師から歯磨き粉の製造方法を聞き、研究して発売しました。1896 年には「ライオン歯磨」のブランドで歯磨き粉を発売、これが大ヒットし、今日のライオングループの礎を築くこととなりました。晩年は伝道に熱を入れ、このような信仰は一族に受け継がれて、その中から牧師や伝道者を輩出しました。

 救いの御言葉は、自分たちだけではなく、全世界の人々に広められなければなしません。聖霊により霊感をいただき、聖書の御言葉を、福音を宣べ伝えましょう。 

2010年7月4日日曜日

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために 死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ローマの信徒への手紙5章8節


 「ここで待っていなさい」と母に言われ、13 歳の少年は、3 日間、母を待ちました。絶望した少年を、あるクリスチャンが、教会の青年キャンプに連れていきました。そこで彼は、イエス様の話を聞き、神さまの愛に触れ、イエス・キリストを救い主として受け入れたのです。ビル・ウィルソンは、牧師になり、スラム街の子どもたちに福音を伝え、毎週2 万2 千人の子どもたちに、神さまの愛を教えています。

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ローマの信徒への手紙5章8節

 罪とは、神さまに背を向けて生きることです。赦されることにふさわしくない私たちに、神さまはひとり子イエス様を遣わしてくださり、罪を赦すため十字架に架けられました。これが、私たちに対する神さまの愛なのです。

 ストーミー・オマーティアンは、UCLA で音楽を専攻し、テレビやラジオなどで活躍する歌手になりました。しかし、母親からの虐待の影響で、学生時代から薬物や男性関係に幸せを求めていました。また、自分は魅力のない役立たずだと思い込み、自己嫌悪に満ちていました。ストーミーが28 歳のとき自殺を決意しましたが、それを感じた歌手仲間のが、彼女を教会の牧師と面会させました。「イエス様を自分の救い主として認め、受け入れるなら、神様と親しく歩み始めることができ、過去は赦されます」と聞き、イエス様は、冷たく断罪的な神とは違っているように感じました。次の日曜、教会に行くと、力強い超自然的な愛が満ちあふれているのを感じました。「ここには命がある。これは本物だわ」と彼女は確信したのです。罪を赦していただくことを確信し、母親の虐待を赦すことを知った彼女は、悪い習慣から努力しなくても解放されていきました。その後、神さまの愛を証するために歌い、講演し、苦しみに満ちた過去は、同じように苦しむ人たちを救いに導くために用いられるようになりました。

 どんな生い立ちや過去があろうとも、悔い改める者に、神さまは愛と恵みをくださり、本当に価値のある素晴らしい人生を与えてくださいます。

2010年6月27日日曜日

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマの信徒への手紙10章13節



 米国の牧師が、教会員の家を訪問しました。すると、子どもが「今、お母さんには会えません。お母さんは9 ~ 10 時の間を祈りの時間にしています」と言いました。40 分ほどで、母親が出てきました。その顔は平安に満ちて輝いていました。牧師はなぜ長女が宣教師となり、息子二人は牧師となっているのかを知りました。 

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマの信徒への手紙10章13節

 名前はその人の本質を表すものです。 イエス様は人々に御名を現わされました。それは、神さまがどんなお方かを示した、という意味です。人が神さまの御名を口にできるのは、イエス様の十字架によって神の子とされたからです。

 「神さま、お赦し下さい。わたしは罪を犯しました」ロリーは、祖母の葬式の帰り、突然怖くなり泣き叫びました。娘アシュリーが、プロジェリア( 早期老化症) と診断された母親のロリーは、毎晩、娘を人に預け、麻薬パーティーへ出かけていたのです。ある日、娘が学校から貰ってきた新約聖書の前書き「悲しかったら、怒っていたら、さみしいと思っていたら、恐れていたら...」を読み、これは全部自分のことだと思ったロリーは、一気に新約聖書全部を読みました。気持ちが軽くなり、毎日、聖書を読むようになると、不思議なことに、麻薬も酒もタバコも一切口にしなくなりました。教会に行くようになったロリーは、牧師からキリストが罪の贖いのために遣わされた話を聞き、神さまは本当におられ、ずっとわたしと一緒にいてくださった、と強く感じるようになります。ある時、「ブンッ!」という音がして、何かの光が一瞬、彼女の脇を通り過ぎ、「あ、神さまは本当におられる。わたしと一緒におられるんだ」と感じました。その瞬間から、それを頭だけでなく、心でも理解することができるようになったのです。やがてロリーもアシュリーも洗礼を受けました。

 イエス様は、わたしたちのために十字架で犠牲となられ、神さまは愛であり、近い存在としてくださいました。だから、イエス様を信じ、人は悔い改めるならば、誰でも神と人を愛する者と生まれ変わり、真に価値のある人生が送れるのです。

2010年6月20日日曜日

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネによる福音書12章24節



 大きなことを成し遂げるために 力を与えて欲しいと神に求めたのに、 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。 偉大なことができるように健康を求めたのに、 より良いことをするようにと病気を授かった。 幸せになろうとして宝を求めたのに、 懸命であるようにと貧しさを授かった。 世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに、 神の助けを知るようにと失敗を授かった。 ( 無名の人の祈り )

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネによる福音書12章24節

 「一粒の麦」とは、イエス様のことです。イエス様に従うクリスチャンも一粒の麦となれます。自己中心さを悔い改め、神様と人に命を捧げることによって、愛に満ちた価値ある人生が与えられます。ステファノは、迫害を受ける中「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。

 サイゼリヤば、ファミリー・レストラン業界で、不況の中でも売り上げが伸ばしています。創業者は、会長の正垣泰彦氏です。品質を落とさず合理化を図り徹底した効率化、無駄を省くこ とでコストを下げ、そして社会貢献のために、商品価格を下げ続けてきました。正垣氏の経営方針には、母親の教えが染み込んでいます。、成功とは、自分の心が正しくなることなのだと教えられました。サイゼリヤの会長室には、正垣氏のお母さんが送った書が額に入れられています。文頭の一節です。これは、有名なカトリックの祈りです。

 人が神様に用いられるのは、自己中心さを悔い改め、自分のためだけの目的や野望を捨てる時です。個人的な野望を捨てて、神様と人に命を捧げる生き方が、価値のある人生です。地に落ちた一粒の麦となって、多くの美を結ばせていただきましょう。

2010年6月13日日曜日

ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」使徒言行録5章29節



 日野原重明医師は、牧師であった父から、三つの『V』について教えられていました。「大きな夢を持つ」Vision.. そのために「勇気を持って行動する」Venture。死後かもしれないが「勝利する」Victory。成人病の名称を、20 年もかかって生活習慣病としたのも日野原先生です。神と人のための計画、行動は、必ず実現し発展して行くのです。

ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」使徒言行録5章29節

 使徒たちは、どんな状況にあっても、まず神様を第一としました。彼らは、自分たちの使命が、復活のキリストの証人であること、知っていました。

  教会学校に通う、男の子がそろばんの検定試験のため、友達と日曜日に勉強することになりました。母親は、お昼からにしたら、と言うと、男の子は、3 時からサッカーがあるので、少ししか勉強出来ないと言い、母親はそれでは、教会学校を9 時から9 時半までして、その後にしたらどうかと言いました。彼は学校で、友達に理由は言わずに、9 時半から勉強しようと言いました。その晩、その友達から電話があり、「10 時まで、教会学校に行くから、10 時半からでいい」と聞かれ、彼は「うん、分かった」と答えました。彼は、友達が教会学校に行っていることを知らなかったのだと思います。モーセの十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。私たちは、このように神の言葉に従うべきなのです。それは、人生祝福への道だからです。

 クリスチャンとして生活して行くとき、人間ではなく、神に従わなくではならない時があります。いつも、人の顔を伺う様な態度は健全な信仰とはいえません。人ではなく、神を畏れかしこみ、神に従いましょう。 

2010年6月6日日曜日

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。使徒言行録3章6節


 ヘレン・ケラーは、日本に身体障害者福祉の運動を起こすために、戦前に1 回、戦後2 回、日本を訪れています。当時の障害者は、法の恩恵はなく、就職もできず、組織も、福祉施設もありませんでした。ヘレンは、障害者支援と福祉制度の必要性を各地で講演し、3 千万円( 今の価値で25 億) を超える寄付が寄せられました。そして、昭和24(1949) 年、身体障害者福祉法案が可決されたのです。

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。使徒言行録3章6節

 使徒たちは、兄弟愛を実践し、貧しい人々や異邦人の暮らしを助けていました。そのため、人々から好意を持たれていました。これが、キリストを受け入れた人の姿でした。

  あるクリスチャンの小5 になる女の子が、交通事故で三ヶ月の重傷を負いました。女の子に過失はなく、運転手は家出をしていた青で、
車検も切れていたため警察に捕まりました。留置所からご両親に謝罪の手紙を書いてきたので、母親は相手を責めず、返事を出しました。「入院中は、ご家族の方に何度も来ていただき、感謝いたしております。これを人生の転機として、今後は明るい光の中を歩んでいただくことを心から願っております。 この本は、どのように生きていったら幸福になれるかを聖書に基き書かれたものです。少しでも人生が豊かになるように、お役に立てればと思いお贈りしたいと思いました。私ども家族も、K さんの今後のことをお祈りしています。」と言う内容でした。女の子の母親には、相手を責めず、赦す勇気がありました。相手の救いを願う思慮深さがありました。加害者の救いを祈って手紙とキリスト教の本を贈ったのです。

 キリストを受け入れた者は、自己中心的な性質が変えられ、神と人とを愛する者へと生まれ変わります。そして、他人の問題や困難を自分のことのように考えるよになるのです。お互いに、他人のことを思いやる姿は、人々から好感を持たれるのです。

2010年5月30日日曜日

『ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちがり、歩きなさい。」』使徒言行録3章6節



 DV( ドメスティク バイオレンス=家庭内暴力) の被害に遭っている女性たちの支援活動を行っている栗原加代美さんは、、スタッフとともに、被害者らに神さまが人に接するような、愛をもって接し、彼女ら支え、励まし、社会復帰させています。DV の被害者を立ち上がらせるのは、金銭ではなく、神の愛なのです。

『ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちがり、歩きなさい。」』使徒言行録3章6節

 人を本当の意味で救うのは、金銭ではありません。神の愛です。キリストの名によって立ち上がるとは、キリストを信頼し、神のために生きることです。

 米国で3 番目の規模を持つハンバーガー・チェーン「ウェンディーズ」の創設者デーブ・トーマスは生後6 週間で養子に出され、両親を知らずに育ちました。また5 歳の時養母とは死別、養父とは良い関係を持つことが出来ませんでした。しかし、毎年夏休みを一緒に過ごした、養母の母である祖母から、勤労、信仰、祈りなど大切なことを教わり、11 歳の時、洗礼を受けました。「本当に、神様に受け入れられた思いがしました」と、言いました。事業が成功した後も、養子のための基金を設立し、里親、養子ともに、良い環境を作ることに尽力しました。この世的には、不幸であり、肉親に恵まれなくても、キリストにより救われ、神の愛を知れば、神の愛を信頼し、歩くことが出来るのです。

 神から受けた愛を、あらゆる人たちに、わけ与えましょう。それは金銭ではなく、神の愛です。人々に神の愛で接するとき、本当に彼ら
を立ち上がらせることが出来るのです。

2010年5月23日日曜日

「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来こないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」ヨハネによる福音書16章7-8節



 「神様は乗り越えられない試練は与えない( コリント一10:13)」牧師でもある小倉義明校長が、高校生ギタリスト村治佳織さんを励ましました。中3 でデビューし、学校とギターの両立の難しさを感じていましたが、その御言葉を聞いて以来、不安に支配されることはなかったそうです。( 日経新聞2009 年2 月19 日夕刊より)。彼女の演奏には、傲慢さなく、神にお委ねする謙遜さがあります。そして、謙遜な魂には聖霊が降(るのです。

「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来こないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」ヨハネによる福音書16章7-8節

 弁護者とは、聖霊のことです。イエス様は、ご自分は地上を去るが、それで聖霊が降るのだから、それはわたしたちにとって良いことなのだと言われました。

 「機関車トーマス」の原作を書いたのは、英国のウィルバート・オードリー牧師です。英国の聖職者には鉄道好きが多い理由として、
1. 狭いけれども真っ直ぐな線路を走ることが、「正しい道」を歩んでいることに似ている。
2. レールによって導かれ走る姿が、聖霊に導かれる人生と重なる。
3. 蒸気機関車の蒸気には、聖霊のイメージがある。
4. 19 世紀に発達した鉄道の駅舎は、教会と似ており、教会も駅も、人を正しい目的地へと連れて行くための場所である。
オードリー牧師について書かれた本の中に記されています。この本は今も多くの子供たちに愛され、楽しさの中で、正しい生き方を教えて
います。

 教会が謙遜な心で一つとなり祈るとき、聖霊が降り、祈りに応えられます。聖霊はわたしたちに御言葉を預け、夢や幻( ヴィジョン)を与え、このヴィジョンが人々の心を悔い改めさせ、救いへと導くのです

2010年5月16日日曜日

「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」使徒言行録1章21-22節


 日本ハムが優勝した年に、ヒルマン監督は祈りの中で、日本に残るよう促されていると思え、残留しました。そして「野球を通してあなたに仕え、あなたの忠実な兵士になり、信仰を公に表すことを恥とはしません」とお祈りした通りにイエス様のことを数多く証ししました。

「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」使徒言行録1章21-22節

 イスカリオテのユダに代わり、新しい使徒を補充するために、必要となったのは「イエスの復活の証人」となることでした。私たちも自分に現れてくださった復活のイエスを証ししなければなりません。

 第二次大戦中のポーランドでユダヤ人は、迫害されゲットーに隔離されました。そこから2500 名もユダヤ人の子どもを連れ出した20 代の若いポーランド女性、カトリック教徒のイレーナ・センドラーがいました。イレーナは困っている人を助けようと、ユダヤ人を支援す活動を戦前から行います。ユダヤ人たちがゲットーに入れられてしまうと、イレーナはゲットーに入る許可証を入手し、仲間と共に、子どもたちを救出しました。ユダヤ人を助ければ、家族も処刑されるという、命懸けの仕事でした。1943 年イレーナはゲシュタポに捕まり、子どもたちの居場所を言わせようと、拷問を受けます。手と足の骨が折れるまで殴られましたが、黙り通しました。その後、仲間がドイツ兵に賄賂を渡し、彼女は解放されました。生前、彼女は「大量殺戮兵器の開発は今も続いています。それでも私は愛が勝つことを信じています」と語りました。キリストの愛を貫き通したイレーナさんは、1999年、新聞に載り世界中に知られ、キリストの証人となったのです。

 イエス様の復活の証人となりましょう。どんな時も神様の愛と力、自分に現れた復活のイエス様を証ししなければなりません。

2010年5月9日日曜日

「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる。」使徒言行録1章8節



 母親の虐待の影響から28 歳で自殺を決意した歌手ストーミー・オマーティアンは、友人の助けによりキリストを受け入れ、苦しみに満ちた過去を、同じ苦しみを持つ人を救いに導くために用いられるようになりました。聖霊が、良い実を結ぶ素晴らしい人生を与えてくださったのです。

「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる。」使徒言行録1章8節

 証人とは証言に命をかけ、時に殉教をも厭わない者を意味します。勇気や知恵の乏しいわたしたちに、聖霊はキリストを証しする力を与えてくださるのです。

 「霊感による真の着想はすべて神から来る。モーツァルトやシューベルト、バッハ、ベートーヴェンのような真の大作曲家すべてが霊感を受けたあの力は、イエスに奇跡を行わせた、あの同じ力なのだ。」ピアニストで指揮者でもあったロマン派の作曲家、ヨハネス・ブラームスは語りました。また、「私は無神論者の若い作曲家を何人か知っている。...『ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない』。無神論者がこれまで大作曲家になったためしはないし、これからもないだろう。...『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる』( マタイ7:7) こうした偉大な教えがもっと良く理解されていれば、実りない作曲の試みで、これほど多くの良質な五線紙が無駄になることもなかったろう」と言いました。ブラームスは生前から富と名声を得ていましたが、うぬぼれとは無縁で、謙虚で質素を好み、貧しい人々にお金を分け与え、多くの友人や支え「互いに相手を優れた者と思いなさい」( ローマ12 :10) を理解している人でした。ブラームスは聖霊に導かれ、力を与えられ、音楽を通して御言葉を語りました。この偉大な作曲家は、名曲は聖霊の力によるのだと言っているのです。

わたしたちは小さいものですが、聖霊からキリストを証しする力を頂き、主が再び来られる時まで、証人とならせて頂きましょう。

2010年5月2日日曜日

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マルコによる福音書28章19~20節



 ノースキャロライナ大学の社会学者ハリスは、子供と父親の関わりと学歴について調査をしました。父親と関わる時間が長い程、学歴が高く、感情的なつながりが強い程、非行に走る可能性が下がりました。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マルコによる福音書28章19~20節

 洗礼を受けることで、私たちはイエス キリストを信じる者であることを明確にします。その人に教え、育てて行く必要があります。イエス様が、私たちともにおられ、信仰を成長させてくださいます。

 人と言い争ったり意見を対立するのが苦手で、いつも迎合してしまう14 歳のジルは、歴史の先生がキリスト教を批判し、彼女が尊敬しているクリスチャンを馬鹿にすることに辟易し、混乱し、自分の信仰にも疑問を覚えるようになっていました。ある日、その先生が「牧師の子弟」について悪口を言い、彼女は激怒しました。クラスに牧師の娘がいたからです。ジルは同じクラスのクリスチャンの友人と、先生が、また他人を馬鹿にする様なことを言ったら、立ち上がって反論することを計画をしました。ただし、敬意をこめた形での反論です。ジルたちは先生の発言が不快であることを知らせました。初め先生は、生徒たちを笑い飛ばそうとしましたが、次第に自分の言葉が愚かしく聞こえることに気が付き、話題を変えるようになりました。イエス様が、ジルたちとともにいてくださり、アイデアを与え、信仰を成長させてくださったのです。

 あらゆる機会を通じて、キリストを宣べつたえましょう。また、信仰を持ってからも疑問や疑いが出ることがあります。それを、信仰を深めるために考え、調べ、思い巡らす機会としましょう。イエス様はいつも私たちとともにいてくださいます。

2010年4月25日日曜日

「 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。」ペトロの手紙二 1章10節



 ある教会の女性の信徒が、突然、余命半年と癌の宣告を受けました。しかし彼女は、牧師に「先生、私はクリスチャンでクリスチャンで本当によかった。死の恐れがないのです」と、穏やかな表情で語りました。

「 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。」ペトロの手紙二 1章10節

 「確かなものにする」とは、自分が神から指名( 召し) され、使命をいただいていることを、誰から見ても分かるようにするということです。私たちは、それでも失敗を繰り返します。しかし、神様は何度もチャンスを与えてくださいます。大切なのは、指名( 召し) していただいたことに誠実に応えることなのです。

 「来週の礼拝に、日本から元カミカゼ特攻隊のパイロットが来るそうですね。耐えられそうにありません。今度の礼拝は休みます」心優しい教会員であるバニス夫人は、戦時中、息子をカミカゼ特攻隊によって殺されていたのです。礼拝で日本人パイロットは、戦後、どのようにキリストにより救われたのかあかししました。彼が教会を出ようとすると、バニス夫人が立ちはだかりました。「私の息子はカミカゼに殺されました」と言いました。そして彼女は、「主はあなたの罪を赦されました。そして今日、主は私の罪をも赦されたのです」と言って、日本人パイロットを抱きしめ、泣きました。何十年も抱いていた、怒りや悲しみから解き放たれたのです。

 信仰を持つことは、イエス様から選ばれたことです。そのことを「確かなものにする」ために、イエス様に喜ばれるように勤めましょう。みこころを求めて正しく行動したとき、神様のみわざは、必ず現れるのです。

2010年4月18日日曜日

「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」コロサイの信徒への手紙1章23節



 「フロイト以来の革命的理論家」と言われる心理学者マーティン・セリグマン博士は、ポジティブ心理学を提唱し、幸福を構成する三つの事を主張します。1、笑顔(前向き。楽しみを持つ)。2、何かに深く関わ人生(仕事、愛、友情など没頭できること)。3、意味のある人生(自分の命より大きなことに仕える)。彼の信仰は明らかではありませんが、この三つを誰よりも持っているのが、カリフォルニアのシューラー牧師だと言います。教会の外から見ても信仰を持ち続ける人は、キリストにある喜びや力を実証するのです。

「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」コロサイの信徒への手紙1章23節

 AD60 年頃パウロによって書かれた手紙です。諸教会に異端的な考えが広がり始めていました。私たちもキリストの福音から離れ、世俗的な考えに迎合してしまうことが多々あります。信仰に踏み持ち続けることが、大切であると、パウロは警告しました。

 禁酒団体、矯風会の役員のなかにも酒を飲む人や、それを容認する人がいました。役員の一人、佐藤正子牧師は、そのことを一人で解決しようとし、そのストレスから「うつ状態」になってしまいました。いつの間にか、主に頼ることを忘れてしまっていたのです。悔い改めた彼女は、夫に「いまさらジタバタしてもはじまりません。主イエスの義をまとって行きます。今晩そのまま主イエスのお導きを信じて寝ます」とメモを書きました。キリストの前にへりくだり、信じ、服従したのです。すると、一ヶ月後には快方に向かい、魂の生まれ変わりにより、体も精神も癒されたのです。そして、今も日本女性クリスチャン禁酒会の活動を続け、主のご用に当たっています。

 時に、主は信仰を持ったときのことを思い出しなさいと、私たちに働きかけることがあります。悔い改め、主に立ち返りましょう。信仰に踏みとどまるとき、希望・キリストとともにあることが出来るのです。

2010年4月11日日曜日

「 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ヨハネによる福音書20章27節


 ある教会でお葬式がありました。その前夜式の後、教会員を診察していた日野原重明先生が突然来られ、献花と祈りをささげました。牧師は感動しました。今まで、診察していた医者が来ることなど一度もなかったからです。復活のイエス様を信じ、「永遠の命」を信じているからこそ、すばらしい行動がとれるのです。

「 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ヨハネによる福音書20章27節

 信じるとは、神様は全能であり、約束を必ず実現されることを前提に生きることです。「全能の神」とは、何でも出来るという何でも出来るという意味だけではなく、「人を祝福で満たしてくださる方」という意味なのです。

 「あなたは否定的で、支配的で惨めだわ。それが変わらなければ、思い切ったことをします」と妻に言われたことから、ポジティブ心理学を調べ、ポジティブシンキングのベストセラー本を2 冊書いた、ジョン・ゴードンは、その本が売れなくなると、否定的だった昔の自分に戻っていました。彼はキリストを単なる偉大な教師としか考えないニューエイジ運動、そして東洋思想の信奉者でした。彼が黙想をしていると、以前、CD で聞いた牧師の「愛なるキリスト」の説教が気になり、十字架が見えるようになってきたのです。仏教徒の友人に相談すると、「仏教は悟りを開くため長い時間をかけて修行をするが、キリストに関しては、イエスを受け入れれば、イエスは魂の痛みを取り去ってくれる」と言いました。彼はクリスチャンホームに育ちましたが、自分の力で神に至れるかやってみたかったのだそうです。ゴードンはイエス様を受け入れる決心をしました。そして結婚も仕事もキリストによって救われ、信仰により真に前向きになれると語っています。

 キリストを謙虚に受け入れ、「信じる者」になり、神に祝され、神の愛を多くの人々に分け与える者となりましょう。

2010年3月28日日曜日

「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」ペトロの手紙一 2章24節



 テンプル大学心理学教授スタインバーグ博士の研究で、2 万人の高校生の3 分の2 が、親と毎日、口をきいていないことがわかりました。また、親と子供のくずれた関係から、学力の低下や薬物乱用などの生活の乱れがおこっていることがわかりました。

「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」ペトロの手紙一 2章24節

 神と人との関係がくずれてしまったこと、それが「罪」です。その「罪」を赦してくださるため、イエス様は「罪」がないのに、私たちの代わりに十字架に架かりました。神の愛によって私たちの「罪」は赦されたのです。

 子供が特に愛を必要としている時に、適切に愛を受けるならば、家族がバラバラになる様な痛みも無事にくぐり抜けることが出来ます。クリスチャンキャンプ協会のボブ・コブレッシュが子供の頃、父は成功したビジネスマンで、母は専業主婦でした。しかし、父親は会社を辞め、カルト宗教に入信し、家族を引っ張り回した後、病気になってしまいました。家族は故郷に戻り、ボブが9 歳の時、両親は離婚しました。この頃、ボブと兄弟たちはキリスト教に触れ、全員がキリストを救い主として受け入れ、ました。家族は福祉の世話になり、母親が複数のパートをかけ持つことで生活しました。ボブはこう言いました「母はいつも前向きで、暗いことは口にせず、私たちは普通の家族のようでした。そうでないとは、知らなかったのです。献身的な母親とクリスチャンの歩みを教えてくれた親戚がいなければどうなっていたでしょうか。自分の育ち、シングルマザーの母親を、神に感謝します」

 神との関係がくずれることは、親子の関係が崩れてしまう以上のことです。神と正しい関係を修復しなければ、人は「罪」のなかに沈んでしまいます。神は、キリストの十字架により私たちへの愛を示してくださいました。キリストを救い主として受け入れましょう。

2010年3月21日日曜日

「 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカによる福音書22章32節



 ケビンは裏庭で野球をして、近所の窓ガラスを割ってしまったことがありました。ケビンの家では裏庭で野球をする事は禁止されていました。父親は、すぐにケビンをしからず、まず抱きしめました。そして「父さんもつらいが、しなければならないことがある。そのまえに、お前を愛している事をわかってほしい」と言いしばらく、抱きしめてから注意をしました。

「 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカによる福音書22章32節

 試練に合う時に、人は挫けそうになるものです。しかし、イエス様は試練に合わないようにではなく、信仰がなくならないように祈りました。信仰があれば試練に耐えることが出来ます。私たちも試練にあっている兄弟姉妹のために祈りましょう。

 60 年代から70 年代バイクスタントで活躍し、年間60 億円も稼いでいたイーベル ニーベルの離婚した妻と娘は、教会の人々とともに彼が信仰を持つように祈っていました。その祈りの中、イーベルはイエス・キリストを受け入れる決心をしたある晩、「悪魔よ、俺の人生から出て行け」と祈りました。すると、神の霊で満たされました。かつて彼は「自分はどんな王や、大統領よりもすばらしい人生を送ってきた」と著書に書きました。また、彼は5 台のロールスロイス、5 台のフェラーリ、2 台のジェット機を持っていましたが、今はそんなものはくだらない物だと思っていると言います。「わたしは罪人でしたが、今は違います。キリストに救われた者です」

 失敗してもあきらめないでください。神様はその失敗さえ益となるように導かれます。また、失敗し落胆している友のため祈りましょう。

2010年3月14日日曜日

『しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」』マタイによる福音書19章14節



 昨日は主人の学校の学位授与式でした。私と子供二人も一緒に東京へ出かけました。式が終わった後にお茶会があり、学校の先生や学生の方々とお話をする機会が与えられました。主人と一緒に学んだというK さんとお話をしました。
 K さんは教会学校の教師をしている方です。K さんの御主人の両親が牧師で、結婚をしたことをきっかけに洗礼を受けられたそうです。現在8 歳のお子さんが一人いらっしゃるようですが、そのお子さんが2 歳の時に、教会学校の教師を任されるようになり、教会学校の生徒は自分の子供一人だったようです。自分の子供一人だけれど、その一人のこどもを大切にして神様のことを教えていたようです。一人のこどもを大切にしていたら、少しずつ教会学校に子供が増えてきたということでした。今ではK さん一人では大変になってしまうくらい子供たちが教会学校へ通ってくるようです。
 K さんが「こどもに伝えることで一番大切なことは神様のことじゃないですか。」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。

『しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」』マタイによる福音書19章14節

 人間は、神様のところから来て、また神様のところへ帰っていくのでしょうか。我が家にも二人のこどもがいますが、この二人は私よりもずっと神様に近いところにいます。信仰を伝えれば、頭でっかちな私よりもずっと素直に受け入れることができるでしょう。まずは、自分の二人のこどもを大切に。自分の子供だけれど、すべてのこどもに語りかけるように神様の事を伝えていけたらと思います。(Y.I)

2010年3月7日日曜日

「 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽の ように輝き、服は光のように白くなった。」マタイによる福音書17章2節



 先週の木曜日に「だだこねワークショップ」というものに眞理子と私の二人で参加してきました。この「だだこねワークショップ」とは、光がお腹にいるときに興味をもった「抱っこ法」(*)の講座です。
 「抱っこ法」の講座への参加は初めてだったのでどんなことをするのだろうと少しドキドキして会場へ向かいました。会場にたどり着き、参加する親子が集まると講座は始まりました。最初はM さんが子供の「泣く」ことや「だだこね」の意味を説明してくださりました。
 初めに、準備運動でみんなで「やだやだ」をしましょうというので、M さんの真似をして「やだやだ」と声に出しながら体をじたばたさせてみました。すると、涙がじわっと出てきました。こんなことで泣いてしまうなんてと戸惑い、大泣きになっては困るので途中で「やだやだ」をやめてしまいました。
 その後、大人同士で子育てでよくある場面をやることになりました。ご飯を食べる前に子供がお菓子を食べたいという場面です。二人ずつペアになり、一人が子供役、もう一人がママ役です。私は最初、子供役をやりました。「お菓子が欲しい」と言いながらママ役の人の手を押します。最初は子供に言われるままにしてしまうママが相手です。子供役の私が押すと、押されるがままにママ役の方は後ずさりしてしまいます。
 次はママが強く、絶対にダメという態度で子供の私の手をどんどん押し続けます。最後は、子供の私が「お菓子が欲しい」と言い、ママ役の方の手を押すと、同じ強さで押し返してきてくれて「お菓子欲しいね」と気持ちに共感してもらいました。その時も、涙が溢れてきました。とても嬉しくてです。子供はこういう気持ちなんだということを身をもって感じました。
 子供が欲しいものはお菓子や物ではなく、頭ごなしに叱られることでもなく、ダダをこねながら気持ちに共感してもらうことなのだと思いました。このことは、抱っこ法の本を何冊か読みましたから頭では理解していました。しかし、今回、講座に参加し実際に子供の立場に立って涙を流すことによって感情でも納得することが出来ました。
 講座に参加した翌日、我が家で全く同じ場面に出くわしました。夕食の前に眞理子が「ジュース飲む」と言い出したのです。一瞬、少しだけあげてしまおうかと思いましたが、気持ちを受け止めてもらったときの嬉しい気持ちを思い出し、自信を持って眞理子にだだこねをさせました。少しの間、だだこねをしたあと、眞理子はすっきりとした表情になりご飯を沢山食べました。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 マタイによる福音書7章12節

 「甘えさせる」ことは良いことだが、「甘やかし」はいけないと聞いたことがあります。子供が本当に求めているものを与えることが「甘えさせる」ことなのだそうです。一方、「甘やかし」とは、子供が本当に求めているものを与えず、他のものでごまかすことなのだそうです。(**)そう考えると、自分自身、「甘やかし」ていることもしょっちゅうのような気がしてきます。子供の本当に求めていることに気がつける親になれるように祈りたいと思います。(Y.I)
★ (*) 抱っこ法とは、赤ちゃんの抱っこの仕方ではなくて心を抱きしめるという意味で親子カウンセリングの技法です。
★ (**) 参考文献『「甘えさせる」といい性格になる!』PHP のびのび子育て2010 年3 月増刊号

2010年2月28日日曜日

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」マタイによる福音書16章24節


 離婚をした夫婦、スーザンとチャールズ。父親は、子供が母を悪く思うように仕向けるため、多くのプレゼントを与え続けていました。しかし、そんなことを続けていたら、大人になった時に、自分たちを操作しようとしていた父を蔑むようになるとは気が付いていませんでした。母親の提案で二人はカウンセリングを受け、父親は贈り物ではなく、愛の言葉を使うようになりました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」マタイによる福音書16章24節

 十字架を背負うという事は、多くの者を失う事です。しかし、本当に価値のある神様のご計画の一部となれるならば、他の物の価値など無いも同然です。信仰を持って、イエス様の後を追っていきましょう。

 スザンナ ウェスレーは、十人の子供がいました。彼女は一週間に一時間ずつ、忙しい時間を割いて、子供たち一人一人と、二人だけの時間を持ちました。また、彼女は、読み書きなど勉強だけでなく、礼儀作法や道徳的価値観なども教えました。もちろん聖書の事も教えました。何が一番大切なのか、本当に価値のある者は何なのかを、身を以て教えたのです。その子供たちは、詩人、作家、牧師、説教者、教師などになりました。

 「自分を捨て、従いなさい」などと言われると、クリスチャンとは自己犠牲ばかりで苦しいものだと、思ってしまいます。しかし、キリストからいただく恵の価値を知る時に、今まで大切だと思っていた物が、無意味な色あせた物に見えてきます。自分だけがうれしい事を捨て、イエスに従うと、より大きな喜びを得ることが出来るの得ることが出来るのです。

2010年2月21日日曜日

「あなたはメシア、生ける神の子です」マタイによる福音書16章16節


 「こどもに愛が伝わる5 つの方法」の著者ゲーリー・チャップマン氏は、「愛しているよ」とこどもに言いさえすれば、愛は伝わると思う親がいるが、残念ながらそうではないと言います。しかし、親の愛情が伝わっていると、こどもは親を正しく理解し、こどもは安心し、希望を持てるようになるのです。

「あなたはメシア、生ける神の子です」マタイによる福音書16章16節

 ペトロは、イエス様の「わたしは何者か」という質問に対し、このように答えました。これはペトロの中から出てきたというより、神がペテロに与えてくださった心から、信じられるように聖霊によって導かれた心から出てきた言葉なのです。神は人を愛し、導かれ、人はキリストを理解し、希望を持つことが出来ます。

 家族で新しい町に引っ越した小学校5年生のサマンサは、両親から「引っ越しのために、新しい友達作りで大変だった?」「お父さんお母さんのせいで引っ越して、住み慣れた町や友達から離れて、愛されていないと感じる?」と聞かれると、「そんなことはないわ。わたしに意地悪して引っ越したわけじゃないもの。お父さんとお母さんが私の事を愛しているのはよくわかっているの。引っ越さずにすめばその方が良かったけど、お父さんの仕事のためにはしかたがなかったんだもんね」と答えました。

 「キリストを神の子と信じます」と信仰告白をすることは、とても大切なことです。そのように、告白できる事は、神様から愛されていると理解しているからです。聖霊によって導かれ、私たちは安心と希望を得ます。

2010年2月14日日曜日

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」マタイによる福音書9章36・37 節



 アメリカのある高校で、教師が生徒たちにクラスメート全員、それぞれの良いところを書くように言いました。そして、それを各個人ごとにまとめ、それぞれの生徒に渡しました。数年後、一人の生徒がベトナム戦争で戦死しました。葬式に集まった先生やクラスメートに父親は、一枚の紙を見せました。それは、高校の時にクラスメートが書いた、彼への賞賛のリストでした。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」マタイによる福音書9章36・37 節

 イエス様は、普通の人であった十二人を特別に選ばれました。そして、彼らを励まし勇気づけて、伝道へと送り出したのです。彼らの良いところを知り、イエス様がご自分の権威を与え、病気を癒す力も与えました。そして、それは彼らの訓練のためでもあったのです。

 ゲーリー・チャップマン、ロス・キャンベル著の「子供に愛が伝わる5 つの方法」という本があります。「訓練のとき」三つの事をしましょうと、勧めています。正常な範囲で、子供が怒りをぶつけている時は、訓練のチャンスです。
1 責めるつもりでない事をきちんとわからせてあげましょう。自分がした事に罪悪感を覚えさせないようにしましょう。
2 子供が正しい行動をとった時は、ほめてあげましょう。「お母さんに、あなたが怒っている事を伝えたのは良い事ですよ」等、一つ一つの行動を言葉にしてあげましょう。
3 建設的な形で怒りを表現できるようしてあげましょう。そのためには禁止ではなく、お願いの形で離す事が必要です。

 教会が発展していくためには、働き人を訓練し送り出していかなければなりません。それぞれが、主から訓練を受ける、主の弟子となりましょう。

2010年2月7日日曜日

「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」 ルカによる福音書6章12節



「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」ルカによる福音書6章12節

 イエス様は、十二弟子(使徒)を選ぶために、神様のみこころを知るために祈りました。祈りとは、神の心に耳を傾け、知ることです。

 選ばれた弟子たち(使徒)

1 ペトロ 本名はシモン。ペトロは岩を意味する語
2 アンデレ ペトロの兄弟。初めはバプテスマのヨハネの弟子だった。ペテロをイエス様のところへ連れて行った。
3 ヤコブ ゼベダイの子。ヨハネの兄。母サロメは、イエスの母マリアと姉妹であった。
4 ヨハネ ゼベダイの子ヤコブの弟。「イエスの愛された弟子」と記され、十字架からイエスに母マリアを託された。
5 フィリポ ナタナエル(バルトロマイ)をイエスのもとに導いた。
6 バルトロマイ ナタナエルと同一人物と考えられる。
7 マタイ 取税人だった。レビとも呼ばれている。
8 トマス 復活のイエスに証拠を求めるなどのエピソードがある。
9 アルファイの子ヤコブ
10 熱心党と呼ばれたシモン
11 ヤコブの子ユダ
12 イスカリオテのユダ  

2010年1月31日日曜日

あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい」 申命記 6章17・18節



 英語を学ぶのに、文法は必要がないとと言った風潮があり、実際、中学校では会話表現の方が重視され、以前程、文法を教えていません。しかし、正しい方法で覚えていかないと、英会話も出来ません。先人たちが行ってきた事には、それなりの理由があるのです。

「あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい」 申命記 6章17・18節

 信仰生活は、古い認識や知識のうえだけに立ってはならず、今の価値観や自己流の信仰生活では、正しく生きる事はできません。聖書を学び、そこから神様に喜ばれる生き方を常に学ばなければならないのです。

 「必要以上の税を集める事は、合法的強盗である」米国30 代、クーリッジ大統領はそんな名言を残した人でした。彼は、ホテルに泊まっている時、自分の服を探っている泥棒を捕まえました。しかし、警察に突き出すのではなく、その若者と話をしました。その泥棒は、盗んだ相手が大統領と知り、理由を話しました。大統領は、彼を信用し逃がすだけでなく、32 ドルを貸したのです。結局、その男は32 ドルをローンで全額返済したそうです。十戒には「盗んではならない」とあります。これは、今でも守らなければならない事です。しかし、クーリッジ大統領は、クリスチャンとして、その若者の危機を知り、法を守るものであるまえに、父親や友人のように接したのです。そして、大統領は、彼が、その愛の行為に答えてくれると信じたのです。

 わたしたちクリスチャンに必要なのは、過去の決まりごとに従うだけでなく、現在の価値観に捕われるだけでなく、神様のみに従い、イエスさまがなさったように行動し生きる事を求められているのです

2010年1月24日日曜日

「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」テモテの手紙2 3章15節



 弟が誕生日に「聖書物語」という絵付きの聖書をもらったことをきっかけに、4歳ごろから、毎晩、布団に入るまえに聖書を読むことが習慣になりました。それ以来、もう何回も繰り返し、繰り返し聖書を読んでいます。小学生の頃には、一通り聖書の物語は知っていました。

「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」テモテの手紙2 3章15節

 聖書は、目には見えない神様がおられる事と、イエス キリストの十字架による神様との和解の手段を示しています。聖書を読むと、私たちは罪深く、十字架による救い以外に方法がない事を知ることができます。聖書はイエス キリストによる罪の赦し、心の癒し、清め、救いを受けさせる書物です。

 中3の夏休みにアメリカで一ヶ月間ホームステイをしました。そのとき聖書を持っていき、初めて、習慣ではなく自分の意志で聖書を開いて読んだのだと思います。ひとつひとつの御言葉が魂に響いてきた事を覚えています。ただ漠然と読んでいた時には気が付かなかった、イエスさまの救いの御言葉が、まるで初めて読んだように、新鮮に感じられました。それは、今でも同じことです。

 聖書は、私たちにいつでも語りかけてきます。イエス キリストによる十字架の救い、罪の赦し。どんな時でも、私たちを真理に導いてくれる、ただ一つの書物なのです。

2010年1月17日日曜日

あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。ヤコブの手紙2章16・17節



 日本語には、元もと文字がなかった。中国から漢字が輸入され、様々に転用されて今日の文字文化は形成された。口語( ことば) では充分に表現できなかった言語も漢字を当てる事で、意味を伝える事が可能とされた。取る、撮る、盗る、採る、執る、捕る、摂る。等々文字から様々な状況を把握することが出来る。その様な事情からか、日本人は造語の能力に大変長けていると思う。[Loveing] という見出しについて、以前話した事がある。飢餓に苦しむ人々を助けようと云う趣旨のパンフレットに使われていた。
 「目は口ほどにものを云う。」と云われる。聖書にも「目はこころの窓。」と書かれている。事務的な表現、規則通りの行動、毅然とした態度は、大切な事であるが、人間関係はそれだけでは成立しないのである。親切にされた, 思いやりを感じたと云う「こころ」の動きが感じられるとき、人間関係における潤滑油は機能するのである。
 イエスの兄弟であったヤコブとパウロとの確執は、古来様々にささやき続けられてきた。ヤコブの手紙は、パウロの主張に対するヤコブの反論であるとか、行動の伴わない信仰は存在しないとの論説はパウロを意識している等々であるが、パウロへの攻撃ではなく、パウロの教えを曲解する人々への警戒である事は明かである。
 「お里が知れる。」と云う言い草がある。ずいぶん失敬な表現であると思うが、在る意味で真実であるだけに、留意すべきであろう。子どもの頃からの環境を云々するのは酷ではあるが、訓練と配慮、また自己の啓蒙によって補う事が可能であるとすれば、人の一挙手、一投足がその品位を上げ下げする。何気なく行った行為が、会社の業績や、個人の将来に多大な影響をもたらす事に心せねばならない。大先輩の牧師は「我々キリスト者は、天国の鍵をあずかる者、現代に於けるキリストの代理、革靴を履いた聖書だ。」「人々が最初に読む聖書は、革靴を履いている。」
 聖書を学び、心から神を信じ、教えを実践する私たちは、人々の読む最初の聖書である。引き続き聖書に興味をもって頂くために、より分かり易い聖書に徹するむね心せねばならない。 社員が電話を手に取った時、その会社の顔になる。お客に茶菓を差し出す時、会社の品位を代表していると云われる。明るいトーンの会話は、会社に利益をもたらすのである。日頃の業務も、こころと思いとの積み重ねに重要な意味がある。ひと言の声かけ、自然に差し伸べられる手、行動が潤いを生み出すのである。(愛一師)

あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。ヤコブの手紙2章16・17節

2010年1月10日日曜日

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」ヤコブの手紙1章21節



 子供を誉めることと、叱ることの最終目標は、善悪の判断をつけさせることにあります。前頭葉の発達していない幼児は、感情で動くことが多く、誉められて気持ち良くなる、叱られて嫌な気持ちになる体験を繰り返し善悪の判断をつけさせるのです。そのためには、親からの感情のこもったふれあいが必要です。

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」ヤコブの手紙1章21節

 ヤコブは悪を捨て去ること、つまり、罪を悔い改めること。そして聖書の御言葉、イエスさまの教えを受け入れ、それを自分の中で手入れし育てるように、勧めています。そのことにより、神と人を人を愛する者へと変えられるのです。

 「勉強しない学生は好きではない。君たちのうち50%はパスしないだろう」と大学教授フロイド ベーカー博士は学期はじめに訓示していました。実際50%の学生が落第していき、教授たちは、落第生が多い教授の方が優秀なであると考えていたそうです。ベーカー教授は、そのころ奥さんと一緒に熱心に活動する教会へ通い始めており、牧師から、「もし問題があったら、聖書を読むことによって、答えを見つけ出せる」と言われました。どうしたら学生たちのやる気を出すことができるか?と、聖書を一章づつ読み進め、コリント1 13 章『愛の書』できっかけを得ました。その後、生活の中にいつもキリストを感じるようになりました。次の訓示では、「私は全員がパスすることを望んでいる。課題は難しい。しかし、私たちが協力すれば、このクラスは全員パスできる」と語りました。クラスには今までとは違った雰囲気になっており、採点基準を落とさなかったにもかかわらず、全員がパスしたのです。

 悪を脱ぎ捨て、聖書の御言葉を受け入れ、それを、私たちの生活に活かしていきましょう。

2010年1月3日日曜日

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、 神と人とに愛された。」ルカによる福音書2章52節



 男の子は女の子よりも育てるのが難しいと言います。男の子は父親に、側にいてほしいと願います。男の子が男らしく育つためには父親の役割が大切です。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、 神と人とに愛された。」ルカによる福音書2章52節

 ユダヤの少年は13 歳になると、バル・ミツバ( 律法の子) という儀式を受け成人に数えられました。イエス様も両親と一緒にエルサレムにいきました。イエス様は学者たちに囲まれていました。彼らはイエス様の知恵と答えに驚きました。人として生きたイエス様は両親から愛され、正しく信仰を学びました。

 今日、男の子が男らしく育つための環境が悪化していると言います。メディアメディアからの影響により、本来の男との姿がゆがめられていると同時に、家庭での父親の不在が悪影響を与えています。男の子は傷つきやすい環境にあります。子供が混沌とした社会の中で育ち、未熟、不道徳、意志が弱く、臆病、自分には甘い男性が増えています。親はこれらの悪影響から、子供を守る義務と責任があります。そのためにキリストを愛する信仰を持つ人へと育てなければなりません。
父親の役割(ドブソン博士)
1 家族の暮らしの必要を満たす

2 家族の指導者となる

3 家族を外の世界から守る

4 霊的な方向を示す


 信仰的な生き方を示し、証する父親となりましょう。神よって定められた善悪の基準を教える必要があります。また、キリストへの信仰には、十字架による赦しがあります。男の子も女の子も罪の許しを知らなければなりません。信仰こそが将来直面する困難に挑戦する準備となるのです。