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2011年3月27日日曜日

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネによる福音書11章25節



 ある老人ホームで、軽度の認知症のお年寄りがひなたぼっこをしながら会話していました。「あの世はどんなところかね」と話していると、もう一人が、「どうもいいとこらしいよ。誰も帰ってこないから」と言いました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネによる福音書11章25節

 人間は誰でも死にます。しかし、聖書は死が人間にとって終着点ではなく、また新たな始まりであると語ります。神の恵みにより、朽ちるものから、朽ちない永遠の者へと変えられるときなのです。

 不慮の事故で天に召された少女は、死ぬ前にある画家のイエスの肖像を見て、「イエス様は、全然あんなふうには見えないわよ」と、はっきり言いました。「 天使よ! 本当にきれい。ママ、見える? 天使の歌が聞こえる? こんな美しい歌って聞いたことがないわ。」7 歳で白血病のため天に召されたアンナちゃんは、死の直前、最後の力を振り絞り起き上がって叫びました。そして、彼女は息絶えました。両親は、それを見て、世界一の贈り物を受けたように感じたそうです。デビッド・ビーベル牧師は、長男を神経疾患で亡くし、次男も同じ病気だと知り、「これが進むべき道ならば、神など地獄に堕ちるがいい」と言いました。しかし、冒涜的なその言葉の中にある真実に気がつきました。それは、神の子は十字架に架かり地獄へ行かれたことです。キリストはすべての人間の罪を背負い、父から捨てられる体験をされたのです。牧師は神の声を聞きました。「息子よ。私はお前のことがわかる。お前の痛みがわかり、悲しみを支えよう。お前の言葉は悲しみを抑え切れずに出たものだ。それでも、私はお前を愛している」。親として、子どもに先立たれる程の悲しみはありません。その気持ちが、かえって神への信仰を深め、神の愛を知ることとなります。肉親を失う悲しみも、神を知る機会とされ、祝福と平安を得る生き方が出来るようにしてくださるのです。

 キリストを受け入れた者は、死後の永遠の命だけでなく、罪により死んだような状態から、新しい命が与えられ、他の人の傷に敏感で、目的を持ち、今までに亡い力で生きられるようになるのです。

2011年3月20日日曜日

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書10章42節


 No Bible No breakfast という言葉があります。聖書を開かなければ、食事を取らないという、決意を表した言葉です。日々の忙しさに心を奪われてしまいがちですが、本当に必要なことは御言葉に耳を傾けることです。

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書10章42節

 イエスが訪れた時、姉のマルタは食事などの世話を、妹のマリアはイエスの話を熱心に聞きました。イエスは必要なことは一つだけ、マリアはそのことを知っていると言われました。

 クリスチャンの映画監督ダン・マーチャントは、全米で「イエス・キリストは何をしたことで有名か、クリスチャンの印象は何か」と、街頭インタビューをしました。インタビューの結果、キリストに対しては良い印象を持っているものの、クリスチャンたちへのイメージは、「狂信的、気取っている、特定の人々を嫌う、偽善者、戦争」などと、良いものばかりではないということが分りました。クリスチャンたちは、自分たちの信仰を純粋に表しているつもりであっても、それが未信者の人々にどんな印象を与え、どう聞こえるか配慮するのが足りないのです。キリストに従う者として、イエス様がなされたように行動することが求められているのに、自分が正しいのだと主張し、議論に勝とうとしてしまいます。「自分の自己中心さ、忍耐のなさ、無知と傲慢さが、人々を神から遠ざけてしまう結果になった。クリスチャンとは、愛なる神を信じ、平和の君を愛し、礼拝する者である。理想の基準は、忍耐、親切、赦しであり、私たちこそ、真理と恵みに満ちた人間であるはずなのだ。そんな私たちが、なぜ他人に対し真理を押し付け、恵みを分かち合うことを怠っているのだろうか」。伝道のために、労力と時間を献げるときも、自分中心の思いからではなく、聞き手の魂の救いを願って行うべきなのです。

 人の魂を救うために、時間や労力、財産を献げましょう。評価の規準を神さまに置くときの行いには、自由さと、明るさと、力強さと、正しさとがあるのです。

2011年3月13日日曜日

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」ローマの信徒への手紙8章1節


 国家、社会、家庭が悪くても、神さまを信じる者は、世の光として輝き、地の塩として役立つことができます。そしてイエス様の霊によるお導きがあることを知っていれば、勇気と平安が与えられ、この世に立ち向かうことができます。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」ローマの信徒への手紙8章1節

 キリストによってのみ、人は罪を赦されます。罪とは神から離れることであり、神から手を伸ばしていただかなくては、人間自身の力で、罪を取り除くことは出来ません。神からの架け橋、それがキリスト、神の愛なのです。

 グリーフ(grief) の意味は、悲嘆、深い悲しみです。カトリックのシスター高木慶子さんは、人々の心と魂のケアを長年助けてこられました。高木さんのグリーフケアで忘れられないのが、4 歳の娘を亡くされた婦人でした。信号待ちの時、娘の手を離したとたん赤信号なのに道路に飛び出して、はねられてしまいました。お通夜でも、泣くこともできません。二週間後、高木さんが母親を訪問し、「いかがですか?」と尋ねると、母親は高木さんを見つめ、「あの子はどうしているんですか?! 今、どこにいるんですか?!」と叫びました。彼女は、手を握り、「ご安心ください。ユウちゃんはね、神様のところに行ってらっしゃるのよ。本当に神様がしっかりと抱いていらっしゃる。お母様が抱いていらっしゃるのと同じように、マリア様にしっかり抱かれているから大丈夫よ」と言いました。すると母親は高木さんの手を握り締めて、「本当ですね?! 本当ですね?!」と叫び、畳に頭を擦り付けて、ものすごい勢いで泣き始めました。涙を流すという癒しへの道を踏み出したのです。 無理して悲嘆を乗り越えた人は、他人に厳しくなる傾向にありますが、グリーフから癒された人は、より優しくなれます。グリーフケアによって、更に高い段階へと人は進むことができ、優しい社会が出来上がってくるのが高木さんの狙いです。

 誰にでも神の子とされ、天国に入る機会があります。それを求める人と伝える人が祈るとき、神さまの真理が現れるのです。

2011年3月6日日曜日

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7章7節



 「祈りについて探求しなさい」と、当時大学の教授をしていた理論物理学者、アインシュタインは、論文のテーマで迷っていた学生に言いました。時間と空間について長年研究を重ねてきたアインシュタインも、亡くなる前の数年間に深く知ろうとしたことは、神さまとの関わりについてでした。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7章7節

 神さまに願うものは、「イエス様の名によって」と制限されます。最後には、常に「あなたのみ旨がなされますように」と祈るべきなのです。
 東大大学院生のY 君は、JR で働くことが夢でした。特に電気機関車が好きで、JR 貨物の就職試験を受けました。面接後、携帯の電源を入れたら、実家の弟から「父危篤」の連絡が入っていたのです。その日の夕方、お父様は天に召されました。父は生前、Y 君が鉄道業界に就職したいと聞いて、鉄道総合技術研究所( 現に勤めていたクリスチャンの知人と引きあわせてくれました。葬儀後、JR 貨物の二次面接に行くと、三人いた面接官の真ん中にその方が偶然座っていたのです。 三日後、その方はY 君と個人的に会い、JR 貨物の総合職よりも鉄道総研
の研究職の方が向いているのではないかと勧めてくれました。それに従い鉄道総研を受けたY 君は見事、就職が決まりました。「小学生の頃からの念願だったJRで働けるという事実に歓喜しました。JR 貨物の受験者と面接官という立場で偶然の再会を果たし、お世話になった方々には本当に感謝は尽きません。今回の就職活動の経緯を考えると、主の導きを実感せずにはいられません」鉄道総研は、クリスチャンとなった元海軍技師・三木忠直さんが新幹線を設計した所で、今はリニアモーターカーを開発する最先端の技術を扱う研究所です。

 祈りとは、欲しいものを欲しい時に手に入れる手段ではありません。自分の願いを御心に適うものとするための霊的な訓練です。祈りの中で心を神さまに向け、御心に近づきましょう。御心とは、人が神さまの子として祝されることです。